■■■ 北斎と広重からの学び 2013.8.27 ■■■

      奇想の系譜から見ると

奇想の画家とは、辻惟雄:「奇想の系譜−又兵衛、国芳」 [美術出版社 1970] で取り上げられた、江戸のアヴァンギャルド6名を指すのが普通。
  ・岩佐又兵衛(武士 1578-1650) 憂世と浮世
  ・狩野山雪(武士 1590-1651) 桃山の巨木の痙攣
  ・伊藤若冲(青物問屋長男 1716-1800) 幻想の博物誌
  ・曾我蕭白(商家 1730-1781) 狂気の里の仙人たち
  ・長沢芦雪(武士 1754-1799) 鳥獣悪戯
  ・歌川国芳(染物屋 1798-1861) 幕末怪猫変化

うーむ、残念なことに、ここに北斎が並んでいない。タイトルが難しいのはわかるが。
  ・葛飾北斎(百姓 1760-1849)

まあ、はっきりいって、現代から見た異端児を集めただけでは。この概念を、それこそ縄文土器や土偶といったものにまで当て嵌めるのには一寸無理があろう。・・・と思うのは、少数派かナ。

情緒的に「その通りダネ」と語る人が多そう。
教科書の権威主義的な「美術史」に沿った鑑賞はさっぱり面白くないから、たまには「奇想」でいこうという心情にはピッタリ嵌る訳で。
その気分はわからぬでもないが、「非奇想」の芸術作品をどう見るか、予め、考えておいた方がよくないか。それなくしては、本当に上記の画家とはアヴァンギャルドか、わかったものではなかろう。どうして「奇想」と感じるのか、自省するのも一興と思うが、如何。

小生は、この点では、日本史の教科書的解説は結構訳に立つと思う。それは、日本通史が公認権力機関の設立場所によって時代を区分しているから。つまり、各時代の一級芸術品とは、時の権力のお墨付きがついたものにならざるを得ないので、実にわかり易いのである。
そして、それに対抗するような作品の存在も示される。当然ながら、その解説は最低限。これが有難い。自分の頭で色々と考えることに繋がるからである。
その結果、反主流には2派あることが示唆されているのでは、と気付くことになる。勝手な思い込みかも知れぬが。

この場合、「反主流」でしかない点が肝。主流あっての、反主流。反主流とは、主流が廃れれば、地位が逆転することはあるが、あくまでも「アンチ」としての位置付け。

一つは、支配層ではないが、経済的に力を持つ層が支持した作品群。いかにも現世肯定的で、デザイン性豊かなものになる。権力公認の作品はどうしても思想統制的ニュアンスが出てしまうが、こちらは、その感覚を殺したもの。換言すれば、楽しさや華やかさを感じさせるものに仕上がっている訳だ。従って、支配層にも「個人的」には受け入れられる素地が大きい。早い話、主流派の堅苦しいイデオロギーから脱した「飾り」絵ということ。
こんな流れに、系譜などあろう筈がなかろう。ただ、新しく生まれた流れとはいえ、全くのゼロから出発している訳ではないから、必ず、過去の作品を参考にしている。その点に着目すれば、飛び地的な系譜と見なせる。

これと全く異なるのが、非支配層だけでなく、支配層のなかからも生まれた作品群。反権力意識をそこはかなく漂わせるが、華美を嫌う。
何故かといえば、支配層内で閉塞感を感じている人達が含まれているからだ。当然ながら、支配層外との交流を旨とする訳で、その思想的ベースは屈折したニヒリズムだと思われる。要するに、知的サロン主義者達が生み出した作品ということにある。それは一種の精神的「遊び」でもある。従って、知的水準は高く、権威主義を嘲笑うような表現が組み込まれていたり、それを超越したような作品だらけ。

異端とは、どちらにも当てはまらない人達。自ら、「狂人」と称するような画家。「幻想的/ファンタスティック」な作品を、「奇矯/エキセントリック」に追求する体質ということ。群れないから、主流にも反主流からも嫌われる可能性が高い。
従って、常識人が作品を眺めれば、「奇想」に映るが、当該作家にしてみれば、個性の発露でしかなかろう。西洋的に言えば、「自我の目覚め」。
主流にしても、反主流にしても、それは時代の要請に応えたイデオロギー濃厚なファッショナブルな思想を打ち出している訳だが、それを超越しているのである。

上述の6名は、その観点では、ちょっと違うかな的な画家も入っているように思うのだが。
小生は、ドンピシャは北斎と見る。
いうまでもないが、広重は町人層の「飾り」のご要望に応じた、反主流派の重鎮でしかなかろう。
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