■■■ 北斎と広重からの学び 2014.1.24 ■■■

   情緒表現回避の思想

テレビのとある美術番組に、ルネッサンス期の女性肖像画が登場してきた。どうということもない美人画の類だが、突然、昔眺めた絵のことを思い出した。
今ではそれが何時の頃だったかも定かではないが、20歳前なのは確か。
こんな調子の「突然の思い出し」は老人性記憶アクセスパターンに陥っている兆候かと気にかかった。そうだとすれば、十分用心してかからねばならぬが、勝手に、大丈夫と判断。と言うのは、頭が、自動的に類似概念を探し出してきた結果と見たから。概念思考が健常なら、頭は冴え渡っていると見てよかろうというのが小生の考え方なのである。

不思議なことに、この記憶、えらく曖昧なのである。絵のイメージもはっきりしないし、どのような時の経験かさえ定かではない。暗記させられた年号のようなもので、断片的なデータしか残っていない。
従って、おそらく展覧会でのことではなく、大型画集あるいは絵とはなんの関係もない本の挿入写真だったと思われる。
まあ、そんなことはどうでもよいのだが、その絵とは、ルネッサンスを主導した家の娘の肖像画。多分メディチ家だろう。どこにでもある単なる肖像画で、どうという特徴も無いため、頭の中にパターン的イメージが全く残っていないのだと思う。にもかかわらず、原体験的記憶として頭の片隅に残っているのは、その女性が与えたインパクトが余りにも強烈だったということ。
当時、近代美術館にはよく通ったものだが、そこの展示作品より、古典的絵画の方が本質的表現に長けていることを、この時に初めて知った訳である。

極めて抽象的であるが、この絵の女性に理性の輝きを見出したと言ったらよいだろうか。
「成程。理性とはこういうものか。」と、思想書ではなく、なんと、絵を通して学んだ訳だ。

どうして、そんなことになったのかは、今ではよくわからないが、おそらく、「理性」というコンセプトの解説に辟易していたからだろう。
しかも、日本的概念の「理性的対処」という言辞には、「群れ」の面倒臭いルール遵守臭紛々とくる。これで納得感が得られないのは当たり前だろう。
そんな時、絵のなかの女性が「理性」のなんたるかを教えてくれたということ。

なにせ、この女性、画家に見られているのにもかかわらず、それに対応しようとの表情が全く見られない。いかにも、洞察力鋭そうな視線を放っているだけ。小生のような鑑賞者にとっては、なんと素晴らしき哉の世界。
しかしながら、一般的には、日本で一番嫌われる手の女性かも。皆に愛される女性とは、「群れ」をこよなく好み、「私、馬鹿だけど一所懸命頑張っています」という態度を示し、あくまでも「可愛い」幼児的な存在に留まろうとするタイプと相場が決まっているからだ。おそらく、それが一番の「癒し」源ということ。

商業的には、当たり前だが、このメジャーな「情緒好み」体質に合うような作品を提供しないと大損。
芸術家と見なされている人々でも、このラインからできる限り外れないようにすることで、「大家」の名称を得ていると思われる。
そう考えると、「北斎 v.s. 広重」は、えらく象徴的な対立と見ることもできよう。

片や、徹底的な情緒回避路線の画家。それに対して、情緒的おもねりの心髄というか、情緒感そのものを主題にし続ける絵師。
従って、北斎の美人画がさっぱり引用されなくて当たり前。肝心要たる「色気」排除の気風が流れているに違いないからだ。
役者絵も同じことが言えよう。「写楽は北斎」とのトンデモ仮説もむべなるかな。大衆の情緒に訴えて劇場を沸かせる仕事をする人々が題材なのだから。それを知りながら、観客が期待している情緒感に合わせて描こうとはしないのが北斎流。なかなかできることではない。

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