表紙 目次 | ■■■ 絵が語る 2016.2.18 ■■■ 「北斎と広重からの学び」[→]を書いてきてつくづく感じたのだが、浮世絵の画風を一言で言えば「理知的」と言わざるをえない。 しかし、浮世絵はその愛好者が都市の町民であり、大衆的な版画だから、そのように評価されることはなさそう。 それは、題材が余りに通俗的だということもあろう。 小生は、その表面的な「理知性」に惹かれたことが、印象派勃興の切欠になったと見る。技法的には、現代絵画に繋がるものを、浮世絵は早くから当たり前のようにして使っていたからである。 基本は線描 姿形の明瞭化 陰影除外 全体構図での視的インパクト重視 左右非対称 余白は絵の一部 対象の拡大や削除のデフォルメ多用 水平線は高位置 遠近法的表現の回避 対象物を浮だたせる奥行感 「遠景+中景+対象物の前景」分割 人物の動きの表現は最小限 平面的画風を強調する色調 コントラストの強いベタ色 対象の色彩と無関係色多用 確かに、浮世絵の影響が濃いとされる、印象派絵画には類似の技法が採用されているのは、素人でもわかる。 立体感無視 混合複雑色回避 しかし、版画ではないとはいえ、輪郭線曖昧化の方向だし、光の生み出す微妙な明暗を重視しており、描き方一つでも両者の間にはかなり深い溝があるのでは。 といっても、技法の摘み喰いをしている訳ではなかろうから、浮世絵から感じられる「精神」に感じ入ったというところではないか。 反写実と脱社会性 反精神主義(反宗教権力) 反力強さ(反古代信仰) そのように見ると、印象派と浮世絵は根本的には異なる絵画と考えた方がよいかも。 上記の反宗教や反古代信仰といっても、おそらく、それを全否定している訳ではなかろう。半強制的に「美」を強制する権力から自立したいというだけのことでは。だからこその、写生の取り入れだろう。自由に、自然の景色からモチーフを切り取ることに意義を見出した訳である。 「光を感じる」ことを描きたくなるというのは、どうかんがえてもキリスト教文化の源流に基づくもの。 これは、日本における、伝統的な陰影感とは全く異なるもの。浮世絵では、特別な意図がある場合は別として、陰を描かないし、ベタ色塗りだが、それは伝統から離れることを意識している訳ではなかろう。絵を鑑賞する側が、その色彩から微妙な陰影感を頭で生み出すという仕掛けなのだと思う。 → 「谷崎風に、「古都」で陰翳を鑑賞する。」[2010年2月16日] 要するに、印象派はパトロン層に流行っているジャポニズムを利用はしたが、その本質たる「理知性」を取り入れようとはしなかったと見る訳である。 と言っても、「理知性」に感じ入った画家がいなかったのではなく、後期印象派が生んだ絵には、その精神性が受け継がれていると考えることもできるのではなかろうか。 その絵は、豊富な色彩であり、少数ベタ塗りの浮世絵の印象とはえらく違うが、モチーフ設定と対象と背景の考え方はそっくりとも言えよう。当然ながら、天から差し込む光ではなく、大衆的概念と化した偶像イメージが描かれる。 あくまでもキリスト者の視点であり、北斎の北辰信仰との接点は無いものの、どちらの絵にもに画家の「理知」が輝いている。 "Ia Orana Maria" Paul Gauguin 1891@Tahiti (アヴェ・マリア、マリア礼賛) →@Metropolitan Museum of Art "Eu haere ia oe" Paul Gauguin 1893@Tahiti (あなたは何処へ行くの?) →@Hermitage Museum "D'où venons-nous ? Que sommes-nous ? Où allons-nous ?" Paul Gauguin 1897 (我々はどこから来たのか?我々は何者か?我々はどこへ行くのか?) →@MFA Boston 絵が語る−INDEX >>> HOME>>> (C) 2016 RandDManagement.com |