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■■■ 本を読んで [2014.10.14] ■■■

皮肉写真を堪能

微かに残る日本の美しい景観を護り続けて欲しいという著者(アレックス・カー氏)の願いを凝集させたような本を読んだ。というか、写真を眺めただけだが。

「醜悪な建築」「邪魔な工業物」「過剰な看板」の実例がこれでもかと並ぶ上に、モンタージュ写真まであり、大笑いさせて頂いた。
一種の皮肉のつもりで上梓されたのかも知れぬが、それは実態そのもの。本来は笑えぬ話だが。

ただ、文章は、貴重な観光資源を活かすべし調。正当かつ真面目な主張。しかし、小生は、そのような提言はもう遅すぎると思う。それが通用するような土地柄など、今や例外的存在でしかないと見ているからだ。

と言うことで、上記の3点について、少し補足しておきたくなった。

● 「醜悪な建築」と「邪魔な工業物」
ご存知のように、コンクリート打ちっぱなしの建築を美しいと褒めあげる人だらけ。それは美意識の問題であり、なんとも言い難し。なにせ、住宅まで含まれれているのだから。
それに、施行はそう簡単ではないから、立派な建物なのは間違いない訳で。
  「打ち放しコンクリート建築を眺めて」[2014.9.15]
当然ながら、コンクリートで固めた景色も賞賛すべき対象の筈。地方の生活レベルの向上にも大きく寄与してきた建造物であり、素晴らしい作品と呼ぶべきもの。なにせ、それこそが住民の飯のタネなのだから、軽んじるなど、失礼極まる。

そうそう、伝統建築や、既存の町並との不調和建築について、おさえておくべきことがある。
この本の著者とは見方が違うところだが。
簡単に言えば、アバンギャルド建築と見るか否かだけの話。・・・「醜悪」さこそが命の建築も有意義ということ。ゴミゴミとして、なんだかわからぬ建物が並ぶ場所が一番よいが、それ以外でも構わない。つまり、その心は、質の低い「美」を、伝統とか称して後生大事にするのは偽善ではという提起。従って、奇をてらった建築作品であればあるほど、インパクトは大きい。

そもそも、立派な建物だとしても、実態はそれを活かしているとは限らないのが、日本の特徴。
折角、建築家が頭を捻ったデザインを施したところで、オープンすれば、すぐに貼り紙ベタベタ。空スペースには段ボール箱が置かれ、そのうち塵が漂う。壁には安物のロッカーが並べられ、戸口回りには訳のわからぬ用途の机が登場し、旗が何本も立つ。出店がならび始めることもある。
実は、これこそが多くの日本人が守り続けてきた風習である。
従って、カー氏が期待するような美しい田園風景にしても、もともと滅多にお目にかかれるものではない。たいていの地域は、なんでも真似したがる体質が濃厚であり、ゴチャゴチャとなんでもありの世界。従って、流行りが終われば、不要物がそこらじゅうに散乱する。花を愛する地域とのスローガンでもぶちあげたりすれば、そのうち枯草と壊れた植木鉢だらけになるのが普通。その横で、発泡スチロール空き箱利用の栽培が始まったりする。そんな風景が嬉しい人達の社会ということ。

おわかりだと思うが、だからこそ、"大都会"東京は「文化的」で面白いのである。計画的ではないから、新しいことが次々と生まれ、不要物は即廃棄されていく。しかし、そんな潮流に抗して正反対の動きをする人達も存在する訳である。なんでもアリの世界。
規格にはまらなくても、ご自由になのだ。そこが地方とは大きく違うところ。

● 「過剰な看板」
カー氏は、日本における看板の意味をご存知ないようだ。それは、生まれが日本でないからという理由ではない。日本人でも同じこと。
もっとも、あからさまに言えなかったということかも知れぬ。なにせ、「文化財愛護看板」に企業ロゴを入れるセンスに驚き呆れておられるようだから。まあ、海外からの訪問者が嘲笑するのは知る人ぞ知るお話。皆黙っているのに敢えて言うのだから。

実は、山歩きとか、川縁歩きが好きな人だと、看板が何を意味しているかはすぐにわかるのである。
山では、宣伝ではなく、道標だが、必ず、建てた組織名が大書してある。同じ場所に複数あったりする世界。しかも、到着地までの距離が違っていたりする。組織毎に、地名が指す場所が違うからである。実に面白い習慣。
要するに、組織名を誇示したいということ。
圧巻は、間違っているものがあったというお話。山での伝聞情報にすぎないから、どこまで本当かわからぬが、嘘とは思えぬ。と言うか、山では有名な話らしい。
間違っている表示だからと、山男が撤去を要求したという。ところが当該組織は全く動かず。いつまでもそのままなので、流石に危ないから勝手に撤去したという。すると、器物破損罪に問われたそうな。
これが日本の実像。

カー氏は、伊勢神宮を例にとって看板の弊害を説明されているが、ほとんどの神社は、寄贈者の名前だらけであり、看板が多いと驚くような状況でもなかろう。それが、氏子を沢山かかえる神社の杜の真の姿である。口に出してはいけないだけのこと。

尚、東京だと、看板を目立つところに出さない店は少なくない。人真似ビジネスでなければ、集客力に寄与しないからである。(一見さんおことわりという話ではないので誤解なきよう。)
そうそう、昔、そんな大繁盛レストランに入ったことがある。店名看板は気付かなかったが、矢鱈に目立つ大きな看板が門の横に。「ここは隣の食堂の駐車場ではありません。」そう、そこは都会ではあるが、静かな住宅地なのである。

ちなみに、カー氏だが、京都の町家再生等に取り組み日本文化を体感できる観光資源創出に貢献ということで、「VISIT JAPAN大使」(旧「Yokoso! Japan」)としてご活躍中である。【特定非営利活動法人チイオリ・トラスト 理事長】

第百八十七回国会における安倍内閣総理大臣所信表明演説でもとりあげられている。24世帯47人の村での活躍ぶりが。
 「桃源郷のような別世界
 「東洋文化の研究家であるアレックス・カーさんは、
  徳島の祖谷に広がる日本の原風景を
  こう表現しました。
  鳴門のうず潮など、
  風光明媚な徳島県では、
  今年の前半、
  外国人宿泊者が、
  前の年から四割増えています。


(本) アレックス・カー/Alex Kerr:「ニッポン景観論」 集英社新書ビジュアル版 2014年9月22日

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