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2004.10.15 |
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茶道流派とは…「栄西」は茶の祖と呼ばれるが、その通りだろう。それまでの茶の湯とは違い、禅宗という思想基盤を取り入れたからだ。しかし、その流れが、現在の茶道に、どう受け継がれているのかについては、茶席に呼ばれる程度の素人にはわかりづらい。様々な流派があるため、互いにどういう関係で、何が違うのか明瞭ではないからだ。 この状況こそ、日本独特の文化と言えるかもしれない、と思うほど多種多様である。 文化祭なら、その辺りのことでも、明らかにしてもらえると、面白いと思う。 → 「博多大茶会に想う 」 (2004年10月14日) もっとも、家元制度の根幹を揺るがしかねないから、現実には難しいだろうが。 ・・・しかし、茶道には、どうして多数の流派が存在するのか、不思議ではある。宗教のような考え方の違いなのか、家督争いがあるのか、などと考えてしまう。色々と本を読んでみたが、目的が茶道の意義を解説するものが多く、残念ながら説得性ある説明はない。 とはいえ、読めば系譜が見えてくる。 この歴史を眺めれば、なんなく理由が見えてくるような気がする。 今の茶道の源泉は、村田珠光のようだ。 室町時代中頃、大徳寺の禅と茶を結びつけ、精神性を重視して、外来文化の日本化を図ったとされている。広い書院での儀式を重んじる貴族的な茶の湯の世界から、四畳半の茶室という大転換を図ったことで知られる。 もっとも、当時の状況を考えれば、東山の将軍隠居所で繰り広げられる華美な茶の湯や、大衆的遊戯として流行っている茶の湯から離れて、品の良い茶の湯を狙ったとも言えそうだ。 そう考えると、この動きの本質は、和様への転換というより、儒教的な「心」を加味することに主眼があったのではないかと思う。下克上の動きで荒んでいる精神に喝をいれたかったのではないだろうか。 喫茶の儀式をとり行うことで、禅の基本的約束事の遵守を誓うようにしたのである。喫茶の作法を守るだけで、無理なく、禅の精神を日常生活に取り入れることができる訳だ。心のなかで、宗教儀式をとり行うように仕向けたということだろう。 この流れを汲んで、室町時代後期に、栄える商人の町 堺で茶儀を確立したのが、武野紹鴎だ。ついに日用品の茶器を使うようになった。「佗ぴ茶」の思想の原点はここにある。 さらに、桃山時代に、千利休がこの教えを発展させ、理念として纏めあげて「道」を確立した。この段階にくると、素人でも多少の知識がある。 例えば、「釜一つ あれば茶の湯は なるものを 数の道具を もつは愚かな」はよく知られており、その思想はある程度理解されていると言えよう。 とはいえ、栄華を否定する「侘び」を基盤としていても、その普及は為政者に大きく依存していた。 先ずは、堺商人の力を活用していた信長が、利休を茶頭としたことで、茶道の地位が固まった。 さらに、豊臣秀吉が、茶頭八人衆などを定めて千利休流を重用した。天下統一に茶道が活用されたとも言えそうである。 七哲と呼ばれる茶人も茶道の普及に努めている。細川三斎、古田織部、といった人達である。 (高山右近、芝山監物、蒲生氏郷、瀬田掃部、牧村兵部) 禅との融合とされているが、キリスト教徒の茶人が多いのも不思議である。 一方、武野紹鴎の弟子であった藪内紹智は、商人文化とは一線を画し、書院点前の形態を維持したようだ。この流れは、以後、西本願寺が庇護し続けた。当然ながら、今も、この系譜は持続している。 政治力で普及した茶道だが、千利休は、豊臣秀吉によって葬り去られる。 利休の長男(実子)、道案は家督を継がず、流浪の後、細川家にかかえられ、豊前で活動することになる。結局のところ、利休の後を継ぐことを許されたのは、次男(後妻の連れ子)、少庵だった。 そして、江戸時代初期になって、少庵の子、利休の孫に当たる千宗旦が、本格的に茶の湯再興に成功する。といっても、華やかなものではなく、本来の佗ぴ茶に徹したらしい。 そして、この「宗旦流」が、宗旦の三人の息子によって、三流派に分かれることになる。 ・次男で、早くから独立していた宗守の「武者小路千家」(1) ・三男、宗室の「表千家」 ・四男、宗左の「裏千家」(2) さらに、宗旦の高弟で、四天王と呼ばれたうちの一人、山田宗偏(漢字「偏」は正しくは行人偏)の「宗流」や、門人の杉木普斎「普斎流」(3)も隆盛をほこることになる。 もっとも、江戸時代の大名が好んだのは、宗旦流ではなく、利休時代の七哲に繋がるそれぞれの独自路線だったようである。 織田信長の弟、織田有楽が興した「有楽流」もこうした流れと同類と言えよう。 町方の茶道と、武家茶道の2つの流れがある訳だ。 武家茶道としては、古田織部の教えが各地に広がっているように見える。「織部流」は九州各地で活動を続けている。 又、徳川将軍家茶道師範となった、古田織部の門下、小堀遠州の「遠州流」(4)や、「上田宗箇流」、「金森宗和流」も残っている。 (小堀遠州は普請奉行として徳川将軍に使えていた。) さらに、四代将軍徳川家綱の茶道師範となった、大和小泉藩二代藩主、片桐石州の流派も多いようだ。こちらは、千道安を継ぐものらしい。「石州流」(5)として、各地に残っている。仙台藩主伊達綱村、会津藩主保科正之、松江藩主松平不昧など、熱心だった大名が多く、現在も活動が続いている訳だ。 町方と武家の、家督相続の文化に合わせて、茶道も様々な流派が発展してきたことがよくわかる。 もっとも、こうした流れとは一線を画す流派があることを知った。「南坊流」である。 南坊録とは、千利休の茶道の秘書の名前であるが、この本を書き写すことを許されたものが、受け継いだ流派ということになる。 博多茶会においての「南坊流」は、筑前黒田家家臣の立花実山から受け継がれた秘書を伝承している流派ということだ。 従って、この茶道が残っている地方もある。 そして、この秘伝開放を主張して「茶道講義」を発行し、茶道の奥義の実践普及に努めた人が明治時代に登場する。田中仙樵である。(6)この流派が「大日本茶道学会」(7)だ。 ここまで見てくると、数多くの流派が育つ理由がよくわかる。 茶道に入るということは、数寄者になり、様々な文化を嗜み、風雅を極め、日々研鑽に励まなければならない。 例えば、小西家の茶道資料「凌雲帳」(8)を見ると、その膨大な体系に圧倒される。細かく定めないと、浅薄なものと見なされる文化とも言えよう。 このような研究が各家々で進んでいた訳だ。流派が次々と誕生するのも当然だろう。 --- 参照 --- (1) http://www.mushakouji-senke.or.jp/ (2) http://www.urasenke.or.jp/ (3) http://www.sohenryu.com/index.html (4) http://www.enshuryu.com/ (5) http://www1.odn.ne.jp/~cas30550/was/frame.html (6) 田中仙樵著「茶道改良論」講談社学術文庫 (7) http://www.santokuan.or.jp/index2.html (8) http://www.konishi.co.jp/html/fujiyama/konishibunko/sadou/ryouun/index.html 文化論の目次へ>>> トップ頁へ>>> |
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