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2005.11.2
 
 


古事記を読み解く [天地開闢]

 日本神話の話をすると、それだけで嫌がる人がいる。古事記を、国家神道の道に引きづりこむ道具と見なしているのかもしれない。驚くべき勘違いである。

 そんな人に限って、神社参拝を欠かさなかったりする。単なる風習だから気にならないらしい。
 どこかおかしくないか。

 我々は、意識の世界で神話の精神を受け継いでいる。それがどのようなものか知ることなしに、自由でいられる筈がなかろう。
 特に、グローバル経済が当たり前になると、こうした日本人のアイデンティティ確認作業はビジネスマンにとっては必須ではないかと思う。
 (最近は、古事記の最初の部分の話を全く知らない人も多い。おそらく、神話を話題にしたことなく育ってきたのだろう。)

 従って、「古事記」の内容を自分なりに噛みしめることは、極めて重要だと思う。
 そう思ったら、躊躇せず、原典に触れるべきだ。
 和銅5年編纂だが、読みたかったら、すぐに始められる。
  → 「古事記(原文) 」 (国立国会図書館 電子図書館蔵書)

 といっても、漢文だから、気楽ではない。やさしい物語調がよければ、そんな作品も読める。
  → 鈴木三重吉「古事記物語」 (青空文庫)

 しかし、お話古事記では想像力が働かない。粗筋を知りたいとか、瑣末な事項を覚えたいというのなら別だが、原典に触れずに読むのは考え物である。

 何故こんな話をし始めたかといえば、何気なしに、沢山ある本から一冊の評論を選んだのである。
 ところが読み始めて、すぐに違和感を覚えた。
 独自の見方や、日本の特殊性を指摘する論旨が気になり、数頁読んで嫌になってしまった。

 特に納得できなかったのは、今の目から古代を見るべきでないという主張である。この主張自体は正論だが、こんな主張の本に限って、神の名称だけが並ぶと、意味ない記述としてしていたりする。正確に言えば、権威付けに加えたと見なすのだ。
 おかしな見方である。

 意味なきものが登場するなら、どこであろうと、好い加減な記載の可能性がある筈だ。そんな代物を細かく分析したところで意味など無かろう。
 ご都合主義的な解釈は御免被りたいものだ。

 わからないのなら、わからないと正直に言うべきである。どのみち、データはないのだから想像するしか手はなかろう。内容は神話であっても、あくまでも歴史書である。

 それに中国と違い、日本では儒教は宗教と見なされていないから、歴史書の嘘は少ないのではなかろうか。儒教が主流になると、人のため、国のために、嘘をつくことが推奨されかねないが、日本ではそのような傾向は薄かったと思う。

 それはともかく、素人ならどう読むべきか。

 潮流を考え、その考えをベースにして、断片的な知識を組み合わせてシナリオにしてみればよいのである。ビジネスマンなら、対象が将来なら、驚くような作業ではないだろう。
 その対象を、過去に変えればよいのである。

 おそらく、そんな感じの本もあると思うが、この分野は余りに本が多い。様々な研究成果と、解釈が溢れかえっているようだ。お陰で、一体、どの本を読めばよいのかさっぱりわからない。

 そんなことで、軽く原本を眺めて考えてみることにした。
 それに、シナリオ作りのセンスを磨ける知れない。

 序はとばして、先ずは古事記本文の冒頭から。
 (序は、原文と同じとは限らないから、避けた方が賢明だと思う。)

 本文では、真っ先に、宇宙感が語られる。

 宇宙誕生は、天と地が現れた時とされる。そして、神が住む「天」は「高天原」と呼ばれる。
(天地初発之時. 於高天原成神名.)

 この宇宙を取り仕切る神が「あめのみなかぬしの神」。天之御中主という名称だから、全能の神ということになる。

 なるほど。

 我々が住む実世界と神が住む世界は対をなしていると考えるのである。“存在する”とは“神ありき”と同じ意味なのである。

 この神に続くのが、「たかみむすびの神」と「かみむすびの神」。

 天之御中主が“存在”を意味するとすれば、前者の高御産巣日は“魂”、後者の神産巣日は“物”を象徴していると思われるのだが。

 こう考えるのは、この3神は、独立しているとされ、隠れてしまうからである。
(此三神者. 并独神成座而. 隠身也.)

 現実世界に係わる神ではなく、実在論の世界を取り仕切る神々と考えるべきだろう。
 従って、この3神は信仰の対象の神ではないと思う。

 さて、天地が存在しているから、「地」に対する「天」が存在すると考えがちだが、どうもその様な概念はなさそうである。そもそも、天と地が分かれた訳ではなく、最初から両者があったからだ。しかも、「地」とは大地とも違う。モノの塊である。

 原始世界の「地」には、地面らしきものはない。

 どのような状態かといえば、液体の上にぶよぶよした脂のようなものが浮いた感じである。しかも、液体のなかにクラゲの様なものが漂っている感じ。なんの区別なく、ぼやっとした、混沌状態の物質の塊なのである。
(国稚如浮脂而. 久羅下那洲多陀用幣琉之時.)

 これが原始宇宙感というか、創世記の地球の姿なのである。
 現代の我々の考え方と似ている。

 ここで驚くのは、古代地球を連想させる表現になっている点である。
 比喩に使われているのがクラゲだ。クラゲが海の王者だった時代を彷彿させるではないか。
 もうひとつが脂。こちらは、海から上陸してきた動物の塊を暗示しているとしか思えない。

 そして、圧巻はその後の表現。
 混沌としている液状物質の海から、自発的に、葦の芽のように伸び出した物があるとの記述がある。といっても生まれたのは植物ではなく、神である。
 思わず、古代の真っ直ぐに伸びた巨大植物を思い出してしまうではないか。
(如葦牙因萌騰之物而.)

 これが神を柱と呼ぶ原点だろう。葦という植物はどう見ても屹立する柱の感じがする。柱とは、神の誕生を意味していると言えそうだ。

 その神とは、「うましあしかびひこぢの神」と「あめのとこたちの神」の2神。
 宇摩志阿斯訶備比古遅と、天之常立と名称しか記載されていない。
 この記述だけではよくわからないが、例えば、下から吹き上るマグマ流と、上から容赦なく何時までも降り続ける雨が世界を作ったというような、地球環境を大きく変えるイメージを持った神々ではなかろうか。

 とはいえ、哲学の範疇の神である。
 これまで登場した5神は特別とされているからである。
(上件五柱神者. 別天神.)

 5柱の神々の次には、「神世七代」の神々が続く。
 七代の最後は「いざなきの神」と「いざなみの神」のペアである。このペアだけは後に話が続くが、他の神はどのような活動をしたのか、全く解説がない。
(自国之常立神以下. 伊邪那美神以前. 并称神世七代.)

 ともあれ、神世七代は、哲学上ではなく、現実のヒト世界の神である。性別がでてくるからだ。
 我々が普通に語る神様の源流と言えよう。

 但し、最初の、「くにのとこたちの神」 (国之常立)と「とよくものの神」 (豊雲野)の2神だけは例外だ。先の「別天神」の5柱の神々同様、独立しており、後から登場しないし、性別も無い。
 このことは、国家、民族といった抽象次元の神と言えそうである。

 その後に続く5組の男女ペアの神々とは、その概念に則って、国家・民族を生み出した神ということになる。
 性別があるということは、誕生もあるが、死もあるということだ。

 ・「うひぢにの神」と「すひぢこの神」 (宇比地邇 須比智邇)
 ・「つのぐひの神」と「いくぐひの神」 (角杙 活杙)
 ・「おほとのじの神」と「おほとのべの神」 (意富斗能地 活杙 大斗乃弁)
 ・「おもだるの神」と「あやかしこねの神」 (於母陀流 阿夜訶志古泥)
 ・「いざなきの神」と「いざなみの神」 (伊邪那岐 伊邪那美)

 最後のペアが日本国の誕生に繋がる神である。他のペアは、その先代とされている。つまり、日本より先に勃興した国を記述したと考えるべきだろう。

 しかも、4代もある。
 これは、日本の先史には、4方面の海外の系譜があることを示唆していると言えそうだ。

 こうしてみると、古事記の冒頭部分は、「天地開闢」というより、「宇宙創生」と記載した方がイメージが合っているような感じがする。
 国家の正統性を訴えるというより、系図を通じて、哲学を披瀝している印象を受ける。

 「古事記を読み解く」 (次回に続く)>>>


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