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2007.10.10
 
 


徒然草の魅力[4]…

 時代背景を考えながら、兼好が何を考えているかを読むことこそ、徒然草の醍醐味であることを書いてきた。
  → 「徒然草の魅力[3]」 (2007年10月3日)

 しかし、現実には、そんな読み方になる訳ではない。
 例えば、こういうこと。

 “ほとんどこの本を読み返したような記憶がなく、昔読んだ本もとうの昔に郷里の家のどこかに仕舞い込まれたきり見たことがない。それだのに今度新たに岩波文庫で読み返してみると、実に新鮮な記憶が残っていた。”

 徒然草を手にとると、そう感じる人が多いと思う。

 そして、“気の付いて少し驚いた事は、『徒然草』の中に現れていると思う人生観や道徳観といったようなものの影響が自分の現在のそういうものの中にひどく浸潤しているらしいことである。”
 これ、寺田寅彦が『文学』に載せた“鑑賞と批評”文だ。(1)
 今でもピッタリ当てはまる人も多いのではなかろうか。
 実は、これこそが、徒然草の肝なのだと思う。

 つまり、読みはじめると、どうしても“本を噛む。”ことになるからだ。
 ・・・流石、編集者のプロだけあって、味のあるコピーだが、(2)要するに、『徒然草』はチューインガムのようなもの、という訳である。

 何度も噛める本など、そうそうあるものではない。徒然草はそんな本にあたる。

 “物が見え過ぎる眼を如何に御したらいいか、これが徒然草の文体の精髄である。”(3)といった文芸評論家の指摘など、まさに余計なお世話だが、確かにその指摘通りである。おそらく、この視点の鋭さにガツン感を味わった人も多かろう。
“よき細工は、少し鈍き刀を使ふといふ。妙觀が刀はいたくたゝず。”[229段](4)

 現実政治から一歩離れたところから眺めると、見えないところが見えてくるものだ。そして、大きな流れもわかってくる。
 兼好は、そんな思索の重要性を見抜いたということ。
 現在でも通用するのだが、残念ながら現代の兼好は未だに登場しないようだ。

 もっとも、当時の状況を考えると、そんな見方をするのは失礼かも知れぬ。

 商品経済の進展で、知識層には言い知れぬ不安感が蔓延していただろう。既得権益にしがみつくだけの腐敗層が蠢いている一方で、これを打破すべきと考えるドグマ勢力が“革命“準備に忙しい。
 そんな旧勢力など無視して地方で勝手に動く“悪党“勢力も勃興してくる。

 この先どうなるかは、さっぱりわからないし、どう対応すべきかの処方箋も無いのである。
 とても落ち着いて評論などできる雰囲気ではなかったということ。

 そのなかで、じっくり腰をすえて思索に耽り、それこそコネタまで繰り広げて、一心不乱に書くことに集中したのが兼好。
 革命思想を胸に抱いていた可能性はあっても、厭世感などただの一欠けらもある筈が無い。

 そんな気分が、読むと伝わってくるから、噛めば噛むほど、味が出るのである。しかも、のんびり味わいながら読むこともできる。これこそが、徒然草の魅力。
 だだ、そんな時代も遠からず終焉かも知れないのだが。

 --- 参照 ---
(1) 寺田寅彦: 「徒然草の鑑賞」1936年 ([青空文庫] 寺田寅彦全集 第七巻 岩波書店 1997年)
  http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/43257_17197.html
(2) 松岡正剛の千夜千冊 第三百六十七夜 [2001年8月29日] ・・・ 吉田兼好「徒然草」1928 岩波文庫
  http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0367.html
(3) 小林秀雄: 「徒然草」 1942年 [小林秀雄全作品 第14巻 新潮社]
(4) 稀代の名工, 妙観という名の比丘が彌勒寺を訪ね, 780年7月18日より8月18日の間に, 白擅香木をもって身丈八尺の十一面千手観音を彫刻.
  http://www.katsuo-ji-temple.or.jp/about/index.html
(徒然草) Japanese Text Initiative [日本古典文学読本IV日本評論者 1939] http://etext.lib.virginia.edu/japanese/tsure/YosTsur.html
(刀のイラスト) (C) 2type swod plus http://online.zero-yen.com/index.html http://online.zero-yen.com/index.html


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