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2007.10.3 |
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徒然草の魅力[3]…前回は、兼好の生きた時代を眺め、兼好の出家の理由を考えてみた。→ 「徒然草の魅力[2]」 (2007年9月26日) 今回は、兼好が「学び」をどのように考えていたか眺めてみることで、出家の意味をさらに深く探ってみたい。 と言っても、兼好が何を学ぶべきか語った部分は、結構有名である。ほとんどの人が読んだ記憶があるだろう。 内容は単純そのもの。 第1に、本を十分に読み込み、儒教(朱子学)がわかること。 第2に、書けること。 その他として、医術、弓射、乗馬が加わる。 さらに食/調理、細工を身につけることも推奨している。 しかし、詩歌と音楽に長けても、統治能力にはつながらないと言い切っている。 “人の才能は、文あきらかにして、聖の教を知れるを第一とす。次には手書く事、むねとする事はなくとも、是を習ふべし。學問に便あらんためなり。次に、醫術を習ふべし。身を養ひ、人を助け、忠孝のつとめも、醫にあらずは有るべからず。次に弓射、馬に乘る事、六藝に出せり。必ず是をうかがふべし。文武醫の道、誠に缺けてはあるべからず。これを學ばんをば、徒らなる人といふべからず。次に食は人の天なり。よく味を調へ知れる人、大きなる徳とすべし。次に細工、萬に要おほし。” “此の外の事ども、多能は君子のはづる所なり。詩歌に巧に、絲竹に妙なるは幽玄の道、君臣これを重くすといへども、今の世には、これをもちて世を治むる事、漸くおろかなるに似たり。金はす ぐれたれども、鐵の益多きにしかざるが如し。”[122段段] それはそうだろう。 “大海の 磯もとどろに寄する波 破れて砕けて 裂けて散るかも”[金塊和歌集]で十分すぎる位わかっていた筈だ。 これは、現代では当たり前に聞こえるが、当時としては、なかなか言えないこと。それまでの権力者は和歌で世を治めることができると考えてきたからである。 第3代征夷大将軍に登りつめた源実朝(1192〜1219年)の結末はご存知の通り。歌の才能があり、出世も速かったが、政治能力はさっぱりだったのである。 将軍と御家人は利害関係でつながっているだけで、武家は、所詮、血縁地縁に基づいて自己繁栄を図る集団ということが見えてしまったということだ。 そんな人達に歌でもあるまい。 一方、公家集団では歌は重要だ。兼好も早くからその才能は認められている。それでは、その力を生かせるかというと、そうならない。身分制で、せいぜいがスタッフ止まりだからである。公卿の権力闘争に知恵を貸す位しかできなのである。これでは、いくら勉学に励んだところで、身に着けた能力を、民のために使うことはできない訳だ。 もっとも、その一方で、本当に政治能力が優れている人は、詩歌と音楽に長けていると、吐露しているのだが。 “優れた人は、本当の学問を身につけており、作文、和歌、管絃もでき、儀式や政治も分かる。そして、書も上手、歌も唄えて、酒もつきあえるとよい。” “ありたき事は、まことしき文の道、作文、和歌、管絃の道、又有職に公事の方、人の鏡ならんこそいみじかるべけれ。手などつたなからず走りがき、聲をかしくて拍子とり、いたましうするものから、下戸ならぬこそをのこはよけれ。”[1段] しかし、我々がこうした文章だけを読まされたら、ちっとも面白くあるまい。 と言うより、つまらぬ説教以上ではなかろう。 しかも、さらなるお説教も。 政治家になるべく、習いごとをしたところで、才なければ、時間がかかってしまい、政治家としての旬は過ぎてまうかも知れぬ。さらに次の勉強などしていれば、身についた頃には一生を終えてしまいかねないというのだ。 “或者、子を法師になして、「學問して因果の理をも知り、説經などして世渡るたづきともせよ」といひければ、教のまゝに説經師にならんために、先づ馬に乘り習ひけり。輿車はもたぬ身の、導師に請ぜられん時、馬などむかへにおこせたらんに、桃尻にて落ちなんは、心憂かるべしと思ひけり。次に、佛事の後酒などすゝむる事あらんに、法師の無下に能なきは檀那すさまじく思ふべしとて、早歌と云ふことを習ひけり。二つのわざ、やう/\さかひに入りければ、いよ/\よくしたく覺えて嗜みけるほどに、説經習ふ隙なくて、年よりにけり。”[188段] それなら、兼好とは一体なにを追及しているの、とききたくなる人もいそうだ。繊細な神経の芥川龍之介なら、そう言いそうだ。 そうなのである。 説話集として読んだら実に低俗なものになりかねないのだ。しかし、兼好が何を追及しているか考えながら読むと、俄然光ってくるということなのである。 そんな観点で、少し考えてみよう。 兼好は若くして歌の才が認められたし、書も素晴らしい。朱子学や真言の知識も頭に入っている筈だ。普通なら、この能力を生かし、朝廷内で仕事を続けただろう。 しかし、公卿にはなれないし、支える人を選べる訳ではない。 朱子学を学んでいれば、空しさはつのったに違いない。宋での朱子学とは、優秀な人材を登用するためのものであるが、日本の朱子学には、そんな役割は期待できないからである。 宋の書院作りは真似するが、そこで私塾を開き朱子学を学んで、世を治める人材を輩出する訳ではない。彼我の違いには、愕然となったろう。 しかも、そんな仕組みの違いがあるにもかかわらず、自分が支えなければならない勢力は、天子が為政者として君臨すべきという理論を信奉している。朱子学による権威付けの次元を通り越し、ドグマに染まりつつある。 貨幣経済に対応すべく、統治を強めようとしても、それは頭で考えただけのもので、社会が変革についていく筈もない。世の中はさらに荒れること間違いなしである。 そして、周囲の公家はそんなことはどうでもよく、ただただ儀式に追われる生活。そのなかで、主流になるために、日々権謀術数を繰り広げる。このまま公家社会で勤めていれば、歴史の歯車に押しつぶされるだけと思ったに違いない。 ・・・さあ、それならどうする。 ともかく、権力から離れるしかあるまい。しかし、それでは世の中を変えることはできなくなる。学んだことも生かせない。 考えに考え抜いたに違いない。そして、ついに、解にたどり着いたのである。 中央政権からひとまず離れ、その離れた所から、政治や社会の動きを客観的な視点でじっくり観察し、時代はどう動いているかを語ることにしたのである。その目線で語ることで、為政者を動かそうとの目論見だ。 表面的には隠遁者の生活だが、心の中は正反対ということ。それこそ、革命家を目指していた可能性もなきにしもあらず。 そんな目的意識で、ただの思いつきを書き流したように見える文章を書いたのである。従って、そこには、社会転覆につながりかねない毒が仕込まれている。ただ、その毒は、知識人にしか効かないが。 要するに、徒然草は、枕草子や方丈記と比較するような作品ではないのである。 --- 参照 --- (徒然草) Japanese Text Initiative [日本古典文学読本IV日本評論者 1939] http://etext.lib.virginia.edu/japanese/tsure/YosTsur.html 文化論の目次へ>>> トップ頁へ>>> |
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