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2008.6.5
 
 


「肉食タブーの世界史」を読んで…

 食のタブーを考える場合の基本的文献とされる本を読んだ。(1)
 1600もの参照文献を駆使しただけのことはあり、データは豊富だが、文化の体系をどう見るべきかという話をしている訳ではないから、素人にとっては楽しい本ではない。しかし、世界をカバーしているし、様々な「理屈」を色々な例で紹介してくれるから、考えるための素材本としては素晴らしい。

 ただ小生が読みたかったのは、肉食全体ではなく、魚食禁忌だけ。しかし、他の項目も軽く目を通した。そしてわかったのは、豚や牛の状況とそれほど違いはないということ。実に様々な理由で禁忌が発生しているのである。
 著者のまとめもあるのだが、素人にとっては、このバラエティを知ることが重要だと思う。状況は複雑ということと、禁忌の本質を感じ取ることができるからだ。ということで、気付いた点をまとめてみた。・・・

 ・世界の人々は思ったほど魚好きではないようだ。
  いうまでもないが、大好きなのは東アジアの海に囲まれた地域の住民である。

 ・禁忌といえば、先ずは、殺戮を避ける教義の仏教の影響を考えてしまう。
  奪う命の数が多いのだから、この精神からいえば、魚食を真っ先に避けそうなものだ。
  しかし、日本を見てもわかるように、一部しか受け入れられていないようだ。
  と言っても、ベジタリアンは少なくないし、ジャイナ教徒はこの戒律を厳格に守っている。

 ・インドのバラモンも魚を遠ざけるが、これは宗教と言うより、漁師が低いカーストのせいらしい。
  そのような食べ物は穢れていると考えるのだ。どの国にもありそうな、典型的な差別である。

 ・ただ、インドやネパールの水葬地域では、別の観点での魚食禁忌が顕著だ。
  そんなところに住む生物を食べると、悪霊が入る気がするからである。
  もともと、ヒトは、排泄物や唾液が混じっていそうな食品を汚らわしく思うもの。
  汚水が入る水辺の生物をその手の食材とみなすのは自然なことかも。
  日本流に言えば、食べると穢れてしまうということである。
  ヒトと生活圏が同じで雑食性の豚が嫌われるのも同じこと。

 ・それとは別に、仏教・イスラム教・ヒンズー教にかかわらず、魚食禁忌が見られるそうだ。
  魚食を肯定しているのだが、魚を獲らない場所が沢山存在するらしい。
  神聖な魚が棲んでいるとされ、皆が喜んで餌付けするのだ。当然、人に懐いてしまう。
  ペットとはいえないが、愛情を感じる生物になってしまい、どうてい食べれないのである。

 ・アフリカでは魚食禁忌は珍しくないという。
  例えば、狩猟を誇りにするマサイの戦士は魚など決して食べないということ。
  定住型の農耕型部族への差別感が食の禁忌に繋がっているようだ。
  日本でも、肉食人種という言葉が通用していた。この発想はどの国にもある。
  食習慣には人種や階級の優越意識を擽る仕掛けが組みこまれていると思った方がよさそうだ。
  食の禁忌は、人種や宗教による差別感の根源でもある。

 ・トルキスタンからパキスタンにかけては、宗教に関係ない禁忌があるという。
  先進国の住人が野鼠を食べる気にならないのと同様で、魚は食の対象外なのだそうだ。

 ・バリ島は海に囲まれているが、魚食が主体ではないという。
  山や木々には神が宿るという信仰が強く、海は悪霊の世界とみなしており、漁を避けるかららしい。

 ・ユダヤ人は魚を食べる。ただ、よく知られるように、鱗と鰭があるものに限る。
  蛇や蠍のような生物との類似性を感じると嫌悪感を呼ぶということだろう。
  肉食禁忌の人が、血の色と同じ赤身魚を食べないのと似た慣習である。
  大部分の人が猿を食べないのも、カニバリズムを連想するかららしい。
  当然ながら、そう感じない人達もいる訳だ。

 ・キリスト教の影響下では、どちらかというと、魚はみだりに食べないものかも。
  今も、トルコには聖なる"Halil-ur Rahman Lake"(2)があるが、これはアブラハムの池。
  当然ながら、ここに棲んでいるのは神聖な魚。食べると死ぬと言われている。
  キリストの弟子はガリラヤ湖で漁をしているし、聖餐式にも登場する位で、魚は特別なもの。
  水と精霊から生まれ神の王国に入るのだから、魚は大切なものなのである。
  処刑の血を連想させる肉食を断つ金曜日は、魚食の日でもあったようだ。

 ご覧のように、理由は色々。ここでは割愛したが、気候や自然環境からくる経済合理性や政治的目的を理由にする説も少なくない。ただ、その手の理屈は、どうも禁忌の本質ではなさそうだ。禁忌とはヒトが生み出した文化そのもので、心の奥底にある感情とつながっているようなのだ。

 従って、この問題に触れると、人々は抑制がきかなくなる可能性がある。
 ここを忘れると、どんでもない事態を引き起こす。
 授業で習った「セポイの乱」を思い出してもらえばわかるはず。反乱の引き金は、銃の弾丸包装に牛油と豚脂が使われているとの噂なのだ。
 現代でも、ヒンズー教徒の海のなかに暮らしているイスラム教徒が怒りを呼ぶような食文化を公衆の面前で披瀝することなどなかろう。それは逆も成り立っている筈だ。イスラム教徒は1億人を超えているのである。
 禁忌の存在を知りながら、公衆の面前でそれに反することを公然と行えば、どのような反応が生まれるかは皆知っているということ。お互いが寛容の精神を発揮しているから問題が発生しないのではなく、少数派が反撥をかわないように十分注意して生活しているだけのこと。

 イスラム教徒やユダヤ教徒はおそらくナマズは食べないだろう。しかし、米国では、国が販売促進の応援を行ったりする。それができるのは、自由で合理的に考える国是だからではないということ。
 禁忌破りを強引に行っていると受け取られていないように努力してきたに違いないのである。
  → 「ナマズ食文化を考える 」 (2008年4月10日)

 最後に、なぜこんな話をしているか語ろうと思ったが、野暮なので止めておこう。

 --- 参照 ---
(1) Frederick, J. Simoons: “EAT NOT THIS FLESH:Food Avoidances from Prehistory to the Present” Univ. of Wisconsin Press 1994年
   [山内昶監訳] 「肉食タブーの世界史」 法政大学出版局 2001年
(2) Balikli Lake REPUBLIC OF TURKEY MINISTRY OF CULTURE AND TOURISM
   http://www.kultur.gov.tr/EN/BelgeGoster.aspx?17A16AE30572D313E603BF9486D4371D6E6CFAD6A98A9E83
(Wikipedia) 「食のタブー」は関心の対象が違うようなので参考にならない.
(インド大反乱の絵) [Wikipedia] SepoyMutiny.jpg http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:SepoyMutiny.jpg


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