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2013.7.30
 
 
 

アニミズム残滓論はお止めになったら…

日本人は古代アニミズムの精神を未だにかかえており、それが多神教文化を形成し、自然を愛する風土をつくりあげたといった手の解説をよくみかける。

そうですナーと語ることにしてはいるが、正確には、そう思っている訳ではない。処世術ということではない。定義が曖昧なままで、議論しても意味が薄いということ。しかも、表現はおかしいが全く間違った主張でもないと見ているからでもある。しかし、中東は今や宗教戦争突入前夜のようだから、それを続けているのはいかにもまずい。そろそろ、そこから脱却すべき時では。

そもそも、多神教とアニミズムを結びつけるのは、いかにも強引。アニミズムを脱却するために登場したとしか思えない、輪廻転生の仏教や、氏族祖霊の儒教を、アニミズム型多神教とみなすような理屈は通用しまい。簡単に言えば、呪術主導の信仰と、経典ベースの多神教とは水と油と見るのが普通ということ。

それでは、日本の信仰をどう見るかと言えば、誰でもが知っている日本の風土をそのまま解釈すればよいだけの話。単純明快。
時代の転換点だと気付くと急遽外来思想を導入する体質こそが日本の特徴。表面的にはコペルニクス的転回を果たすのだが、旧来思想を捨てるのではなくできる限り習合して残すというのが基本原則。導入期は大混乱だが、新時代の「形」がつくと、すでに何を切り、どう残すかの目星がついているから、後は一気に走る。それだけのこと。
それが一段落すると、見回せば、雑炊的文化が残っていることになる。それはそれで面白いし、多様な文化だから楽しい訳で、成熟した社会へと進む訳。
これが何層にもなっているにすぎまい。
 → 「イマジネーションベースの歴史観」の例 [2013.7.16]

これはアニミズムとも、経典を持つ多神教とも全く異なる。一神教信徒からすれば、両者ともに、それなりに原初的信仰と見なして理解することができるが、重層的な信仰は理解できないから注意した方がよい。自分では上手く説明しているつもりでも、聞かされる方は逆に受け取る可能性の方が高いからだ。いかにも無原則で、なんの信仰心も持っていないご都合主義と決め付けられかねない。無神論者なら信用するが、ご都合主義者は要注意となる。中東のように宗教対立が激しくなったりすると、最初は、その枠外だから無風だが、それは危険なこと。すべての宗派から敵視されかねない存在だからだ。

話はとぶが、同じように、日本人は自然を愛するというのも、コンセプトが極めて曖昧だから要注意である。こちらは、アニミズムの残滓が残っているどころの話ではない。

西欧流に言えば、「自然を愛する」と言えば、暇ができれば、できる限り海や山の「自然」に触れ合うというイメージだろう。間違う人が多いが、日本人の大半はそういう生活とは無縁である。
農山漁村で考えればわかる筈。自然に触れ合うために散歩などすれば、変わり者とされてしまう社会。経済活動以外、自然と触れ合うためにわざわざ外出することはまずない。
しかし、これは都会では逆と勝手に思い込んでいる人が多い。と言うか、それが西洋的価値観に合うからそう思いたいのだろう。自然が乏しいから、自然に親しむチャンスを生かそうと行動している筈と見るのである。しかし、実態は違う。
7〜8割の人は山も海も行こうとはしないのが現実。実は、この数字、農山漁村と変わらないどころか、おそらくそれより多い。テレビで「自然」を眺めるのは好きだが、出かけることはしたくないのである。ただ、例外はある。マスコミが騒げばそこに足を伸ばすことはある。ただ、それは自然と触れ合いたいからではなく、皆に合わせる必要上。
それが、実は日本における雅なのだから当然の姿勢。「生」の自然ではなく、自分の生活空間の窓から眺めた「自然」だけが、 「いとをかし」なのは清少納言の時代からの伝統。彼女にとって、山に行くとはせいぜいのところ、皆が参拝に訪れる伏見稲荷なのである。

こんなことは当たり前の話だが、事実を指摘されると不快に感じる人が多いから皆黙っているにすぎない。
海や山に行かないのは、出不精からと解釈している人もいるが、おそらくそういうことではない。自然と親しむ行動は極めて個人的なものだから嫌われていると見るべき。「群れる」場が無いから行く気がしないというだけのこと。
自然とは異なるが、それがよくわかる事象など至るところに。・・・
日本全国、美術館や博物館だらけになっているが、クラシックの音楽会を含め、「群れ」で行く仕組みがないなら、7〜8割の人達は行くことは無いというのが小生の見立て。もっとも、「群れ」への義理で、1回は足を運ぶかも知れぬので実態は5〜6割りだろうが。逆に言えば、2〜3割りの人のなかに、色々なところに気軽に足を運ぶ層が含まれているということ。

信じられなければ、周囲にいる古典的なプロ野球ファンにあたってみればよい。野球場に行かない人だらけである。その理由を、時間が無いとか、交通不便と見なすこともできる訳だが。おそらく、サッカーはこうした体質を見抜いてサポーター育成に力を注いだのだと思われる。素晴らしい選手が次々生まれたことの方が影響が大きそうだが、「群れて観戦」の文化を作ろうと動いた方針は秀逸。

この辺りが全くわからない方もおられる。パチンコ好きの、銀行系の有名評論家など典型だった。パチンコこそ「庶民的」と思って、それをウリにしてオピニオンリーダーの地位を獲得したのだが、統計数字を読むだけで、洞察力を欠くとこういうことになる。
パチンコ、競輪/競馬/競艇に熱をあげる層は日本では例外的。7〜8割の人達は全く関係していない筈である。言うまでもないが、「群れない」手の時間潰しになってしまうからである。ギャンブルに手を出さない真面目な民族と誤解しない方がよい。

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