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2014.3.20

蓮文化はナイル河文明発祥か

蓮の漢字について書いていて、蓮と睡蓮が混同されて使われてきたという話が至るところで紹介されているので気になった。
  「蓮こと荷」
昔の分類では両者は同類とされていたから、どうということはないが、分子生物学の進歩で、両者は類縁とは程遠いことがわかったこともある。
被子植物
│┌アンボレラ
└┤┌睡蓮(未草),鬼蓮,河骨
└┤┌樒, 等
└┤樒擬,寒葵,胡椒, 等
│┌┤
││└木蓮,楠 等
└┤
┌─単子葉類
└─┤┌松藻(金魚藻)【沈水 根無 単子葉類似】
└┤
"真正"双子葉類・・・が属す.

そして気付いたのは、中国は矢鱈に細かく蓮の部位名称を決めているが、それは食べる際の部位確定と、鑑賞での評価上の都合からきていそうだという点。もともとは仏教の聖なる花ということで重視されていたと思うが、そのような見方は中国には根付かなかったようだ。先ずは食ありきの文化か。
もっとも、支配階層はそれよりは、花を愛でることに熱中したようだ。
従って、睡蓮と蓮の峻別か同類かは、食材としての価値と、花葉の美しさで決まっていたに違いなさそう。そこには、仏教的な信仰心は露ほども無し。
ただ、一時、白蓮宗(弥勒信仰主体の浄土教)が、天主教同様の一神教的な結社組織と化し、反乱勢力として立ち上がったことがある。中国の仏教徒にとっては、白蓮は浄土のシンボルだったことがわかる。もちろん、反乱は鎮圧され、(所謂、 紅巾の乱)抑圧された訳だが、今でもその残り香はあろう。

一方、日本の場合も、食材用栽培にえらく力が入っていたのは間違いなさそう。蓮実の甘納豆はメジャーな産品とは言い難く、食するのはもっぱら根ではあるが。だからこそ、立派な蓮根が店に並ぶ訳だ。タイも蓮根好きだが、小生が見かけた根は随分と痩せこけており、日本ではとても売れない代物だった。気候や好みの違いというより、注力の差ではなかろうか。
ところが、中国のように、食としてだけ追求してはいないのだ。宗教花として、深く浸透している。なにせ、お彼岸の3色落雁が蓮の紅花・蜂巣、緑の葉を模したものだったりする位だ。蓮の生花を飾りたいところだが、それが無理なご時世だから、せめてお菓子でということだと思われる。

日本の仏教は中国から伝来したもので、経典にしても漢訳版だというのに、中国は仏教の蓮花文化をいともあっさり捨ててしまったようである。
(大乗仏教の経典「法華経」は「正しい教えである白い蓮の花」の漢訳)

さて、その蓮だが、泥の中に生まれながら、清らかで美しい花を咲かせ、しかも、その花が泥に染まらないとのイメージが一般的。しかし、それは原初からそうだったのだろうか。

そこら辺りを少し考えてみると面白いかも。

と言うことで、仏像での蓮の扱いを眺めてみよう。
  ・如来像等の台座として、蓮華座を用いることが多い。
    (東大寺 盧舎那仏) 直系18.3mと巨大
    (愛染明王) 凝った構造
  ・鬼子母神や吉祥天の像は荷葉座だったりする。
  ・仏像前に、金色木製蓮華(「常花」)が飾られる。
  ・蓮華を持つ菩薩像がある。
    (千手観音)
     左手側持物は白蓮華と紅蓮華。右手側は青蓮華と紫蓮華。
    (如意輪観音)
     開いた蓮華が持物。
    (聖観音)
     蕾の蓮華が持物。

次は、密教の胎蔵界曼荼羅の図絵。
この中心は中台八葉院と呼ばれる。つまり、そこは8枚の花弁をもつ蓮の花の世界ということ。大日如来が4如来4菩薩に囲まれている訳だ。その南側には観音菩薩を主尊とする蓮華部院。

浅学な小生はよくわからぬが、これほどまでに蓮が重要視されるのは、極楽浄土観に由来しているかららしい。浄土は清らかな蓮花の形をしており、ヒトは往生してそこで咲いている蓮華の中で再度生まれることになるのだという。それが仏教の根幹をなす輪廻転生の思想ということらしい。

それはそれで納得できるが、浄土観だけではおさまらない。と言うのは、釈迦生誕の「花祭り」では、蓮花の上に立つ童子姿の釈迦像に甘茶をかける慣わしがあるからだ。こちらは死後の世界の話とは次元が違う。言い伝えによれば、お釈迦様は誕生直後に歩み始め、その足跡から蓮が次々と生えたとされる。ご存知のように、その花の上に立ち上がり「天上天下唯我独尊」と第一声が発せられるのだ。

今迄、なんの気もなく、こうした話を聞いていたが、よくよく考えてみれば、これらは仏教とは違う発想から生まれたものではないかという気になってきた。つまり、蓮が尊ばれるのは、清浄ということではなく、仏教以前の蓮を尊んだ信仰をそのまま受け継いでいるだけのことではなかろうか。

どうも、それは宗教「学」をかじったことがあると常識の範囲でもありそう。経典に蓮に関する記述があり、そこでは、睡蓮や蓮の花の色を取り上げているからだ。これは、普段考える、蓮の清浄さを尊ぶという話とは大きく違う。しかも、蓮と睡蓮は峻別されないどころか、同類のように扱われている。このことは、原初の信仰花は睡蓮だった可能性を示唆していることになろう。

具体的には、こういうことになる。
普通に考えれば、仏教の蓮華[パドマ]とは「紅」蓮。まあ、実態は紅色ではなく、ピンク色だが。
経典では、青色の睡蓮(優鉢羅華)、アメリカにしか存在しない黄色だが現実には白色の睡蓮(拘物頭華)、それに、白蓮(芬陀利華)も登場してくる。[漢字表記はサンスクリット語の発音の当て字]
    「仏説無量寿経巻上」
  ---池岸上、有栴檀樹。 華葉垂布、香氣普熏。
  天 優鉢羅華 鉢曇摩華 拘物頭華 芬陀利華、雜色光茂、彌覆水上。


なんだ、そういうことかとならないか。
白の睡蓮、青の睡蓮とはナイル文明のLotusである。太陽神の花ということ。・・・昼咲き睡蓮は、花弁が朝開き、その中心は太陽の黄金色。これが夕方までに萎む。そして、翌日、再生する訳だ。その花には、太陽神のトーテムたるスカラベ(糞転がし)がやってきて、花粉をつけて大気のなかへと飛び立っていく。
そして、芳香が太陽神の力を大気に漲らせてくれる訳である。
どう見ても、インドの蓮信仰は睡蓮信仰のエピゴーネンに過ぎまい。
蓮花上に立つ童子姿の釈迦像とは、太陽神誕生以外のなにものでもなかろう。中台八葉院の中心の大日如来に至っては、まさしくRaそのものと言えよう。


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