表紙 目次 | 2014.5.26 中国の料理文化圏中国の食文化を「○○菜」として紹介している話が多いが、それは多分に政治的なものというお話をした。 → 中国の料理文化圏 [2014.5.23] これだけで終わってしまうと、なんとなく尻切れトンボ臭い。そこで、どのように考えるべきか、素人論を展開しておくことにした。 その場合、イの一番にとりあげたいのは、【北京料理(京菜)】。小生なら、中国の4大料理の筆頭として紹介したくなる。 と言うのは、この食文化の位置づけがわかれば、中国料理の分類が自動的に見えてくるからだ。 なんとなれば、中華帝国とはあくまでも皇帝が差配する国家であり、食文化も皇帝の意向によって左右されるから。現代で言えば、それは中国共産党の首席に当たる。つまらぬことを言っているように思うだろうが、ここが肝要なところ。 常識で考えれば、北京の食とは、北方の非漢民族の食文化が混沌としている筈。基底にはユーラシア北方一帯に流れる馬賊的な文化が流れていると考えるのが自然。 つまり、【北京料理(京菜)】とは、あくまでも、<北方民族料理圏>の代表なのである。漢民族食文化も一応入っているという程度。北アフリカ、西アジア、アラビア、ペルシアよりは、重視されているというにすぎまい。 そのように考えれば、北京料理の代表は羊料理となる。 ・涮羊肉 元祖しゃぶしゃぶ ・烤羊肉 直火焼 さすれば、北京料理は、脂っこい料理との見方も疑問符がつく。その見方は、当たっているともいえるし、外れているともいえそう。 動物性脂肪を捨てることをしないから、それをそのまま料理に用いれば桁違いにオイリーになろう。しかし、肉の旨みを大切にする人達だから、本当のところは、あっさり味を追求したい筈。寒いから、カロリー供給という意味で油料理は多くなるとはいえ、油による濃厚感を好んでいると見るべきではなさそう。 ただ、寒冷地だから、どうしても塩蔵漬物だらけになりがち。こうした食材を活用するから、全般的に塩分リッチなのは致し方あるまい。そのため、濃い味好みとみなされる訳だ。 さて、穀類の方だが、北方の地は、もともとは粟・黍。それがシルクロードを通じて、乾燥草原地帯に合う麦作が伝わってきた上に、粉化技術も渡来したので、黄河域の主作物は一気に麦に変わったようである。そして、小麦料理に熱情を傾けたようだ。 北京料理は非漢民族食文化が基調だが、ここらだけは大きな影響を与えたようだ。 ・焼餅夾牛肉 ・炸醤麺 ジャージャーメン(豚肉) これらは、もともとは羊だった可能性もあろう。羊よりは、牛の方が生産性が高いし、豚は圧倒的な低コスト生産可能だったから、大衆料理的になると、羊は消えるのである。「随園食單」を読んでわかったが、漢民族の好む豚は人気薄だったようである。高級料理は羊肉中心で、せいぜいが牛まで。 ・京醤牛肉絲 豚は、廉価で美味しい肉だゾとの文人の発言はあるものの、それは非北方人であることに注意を払うべきだろう。 それでは、次に、北京周辺の北方民族料理を見ておこう。 先ず、どこまで伝統が残っているかわからぬが、満州族の前身とでも言えそうな民族から。もしも古くからの伝統料理が残っているとすれば、遼陽ではないか。 <女真族系>遼陽,撫順 【遼陽料理】 一番古い形の料理は、こんなところではなかろうか。 ・煮全羊 子羊丸ごと ・羊羹 煮凍 古代から、馬は食材と見なさないらしいが、驢は別。渤海驢は有名らしい。 ・驢肉火焼 上記の類の料理は東北3省の満州族食文化の流れとしてまとめられ、地域色は消えていくことになろう。漢民族にとっては、どれも同じということで。その結果、北京料理としても十分通用するものが主流になると思われる。民族独自色が強い料理はマイナー化一途と見てよさそう。 <満州族系> 遼寧省瀋陽,吉林省長春,黒竜江省ハルピン[哈爾浜] その食文化は、【東北料理】と呼ばれるが、伝統ははっきりしなくなっている。しかし、羊肉への拘りと葱嗜好は残っているようだ。尚、香りではクミンが好まれている。 ・葱爆羊肉 油揚 ・孜然羊肉 しかしながら、東北3省は豚肉経済(哈爾浜白猪,吉林黒猪,遼寧新金黒猪)へと大きく歩を進めたから、食文化は激変していそう。 ・東北醤大骨 背骨 ・酸菜白肉 台湾が流行を作った模様, 次に、西の方向。 <西域系>【西北料理】 甘粛省-蘭州.敦煌,武威 青海省-西寧 <古代西方中華帝国系>【西安料理】 陜西省-「長安」 ここら辺りまでが、中国文化系の北方料理で、ここから西は異国料理なのであろう。餃子のタイプもここで変わるということか。麦パン食の扱い方の変化も大きかろう。 ・羊肉泡馍 パン入シチュー それと、特徴的なのは中華圏的麺料理。 ・凉皮 <蒙古族系>【北方料理】フフホト[呼和浩特] おそらく、塩茹羊肉,羊ハム/ソーセージが好まれ、乳製品リッチな食ということになろう。ほとんど異国と言ってよいのでは。 ・蒙古烤全羊 小羊丸ごと直火焼 <イスラム信仰民族系>【清真料理】ウルムチ[烏魯木齊] ・新疆烤全羊 これでおわかりになると思うが、<北方民族料理圏>とは、陸のシルクロード食文化の地域ということ。 羊肉直火焼と臓物料理に、肉スープに工夫を凝らした麺類と様々な詰め物の餃子といったところが、共通の嗜好と見ることもできそう。 まあ、それを強調するために、羊肉を取り上げたようなものだが、ご存知のように、北京料理で一番有名なのは北京ダックだ。(ご注意:鴨=アヒル 野鴨=カモ)ここらの事情も理解しておく必要があろう。 ・北京烤鴨+薄餅 この料理は、明の永楽帝が遷都し、南京から持ち込んだらしい。まあ、隋の時代から、アヒルは持ち込まれていたと思われるが。料理の原形は南京料理。 ・金陵叉焼鴨(金陵=南京) 名称を見てわかるように、北京ダックの調理方法は直火焼「烤」とされている。しかし、実態は、あぶり焼「焼」料理だ。北方民族はこの手の調理手法を使わないから、文字表記がおかしいのである。明は、覇権を握ったにもかかわらず、漢民族の意向はさっぱり反映されていないことがよくわかる。 しかしながら、人民中国になり、漢民族の覇権が貫徹してきた。そのため、陸のシルクロード食文化の地域という見方は大いに嫌われたようだ。中華帝国の正統な流れを汲む漢民族政権であるとの主張に反する動きはお気に召さない訳である。北京はあくまでも、漢民族文化の都市でなくては、ということ。 だが、そのイメージ作りはいとも簡単に進めることができた。 一つには、プロレタリア文化大革命運動で徹底的な「下放」が行われたことが大きい。人々は、様々な地域の家常菜に接したから、庶民レベルでの食文化の違いを実感したのである。そこで、漢民族文化の視点での、「菜」分類が一挙に浸透した。 それに、当たり前だが、共産党は宮廷料理の流れを敵視する姿勢をとらざるを得ないから、北京を北方民族文化の拠点とは認めたくないこともあろう。 と言っても、一番最後の宮廷料理「満漢全席」を否定した訳ではない。これは好都合な話だからだ。北京が「漢」料理のメッカであるかのような印象を与えるので、利用価値は高いのである。その実態は、珍しい食材の料理を集めたものであるにもかかわらず。 ともあれ、北京料理は、漢民族の食文化が色濃いとのイメージ戦略が当たったのである。 膨張した大都市の移住者層の大半は、海に突き出た半島の山東省の民。その食文化が存在しているのは確か。そこで、北京料理の源流はココとの主張になったにすぎまい。それは北京の支配層が好んだ料理ではないと思うが。この話は最後に再度述べることとしよう。 【山東料理(魯菜)】 おそらく、その影響力が大きいとしたら、料理というよりは、食材だろう。大白菜の産地だからだ。それは北京の野菜と化したに違いない。北方料理の底流は肉中心の野菜レスではあるが。そして、大きく寄与したのは海産物料理。これは、内陸部では好かれない手のもの。魚は淡水産でというのが、基本姿勢だからだ。従って、北方系の羊食民族には、山東料理に興味が湧く道理は無い。ただ、文化がインターナショナル化すれば、そうした流れも勃興してくるというだけ。海路も開発されたからだ。但し、その辺りの食文化は北京料理ではなく、渤海湾沿いの外港で発展したと考えるのが自然。 【天津料理】 北京料理の派生と考えるとよいだろう。その一番大きな影響は魚介よりは砂糖の利用かも知れぬ。当然ながら、支配層が好んだものは名物として残ることになる。 ・糖炒栗子 ただし、土着の北京住民は河北省の民であるし、そのお隣辺りからの影響も少なくなかろう。 それが見てとれるのは、小麦料理。あくまでも大衆料理だが、北方料理のエッセンスたる肉汁味を取り込めばすべての層に受け入れられることになろう。料理は同じタイプでも、食材で高級料理から庶民食まで対応可能という点で長続きしそうな食文化である。 【河北(張家口)料理】 ・焼餅 【河南料理】 ・烩麺 (羊,牛) 【山西(晋)料理】 ・刀削麺 ・三鮮打滷麺 ・猫耳朶 ・木須炒麺 小生は、そういう点から北京を通じて、北方に大きな影響力を与えたのは、海側の「魯」こと、山東の食文化ではなく、山で海から遮蔽されている乾燥地帯の「晋」こと、「魏」の文化を残していそうな山西ではないかと思う。 そんな見方こそ、中華料理文化の分類の真っ当なものではなかろうか。細かいことにとらわれては駄目である。大陸を俯瞰的に高いところから眺めてみなければ。 「魏」の時代の流れは、今もって消えている訳ではない。魏の北方は「匈奴」圏だが、そこに位置するのが北京。要するに、淮河(+泰嶺山脈)以北は、「魏」と南北を二分して統治していたのである。その後、漢民族圏は北京に牛耳られ、表面上は北方の食文化全盛になった訳だ。 重要なのは、ここは、例外的な小規模田圃を除けば稲は無い点。米食文化は自然に育つことはあり得ない。 言うまでもないが、その南方の「蜀」と「呉」が米食文化圏。適地さえあれば、稲の方が生産性が高い上に、粉化しなくてもよいし、その上に美味しいとくるのだから当然だろう。 にもかかわらず、北京にまで米食が入っているということは、南の米が古くから「南船北馬」という流通ルートに乗っていたことを意味しよう。小生は、南の人々はもともとはジャポニカ的な粘る米がお好みだったが、それは北方の羊肉文化圏では嫌われた故に、パサつくインディカ米が主流になっていったと見る。北方食文化の影響力は強大なのである。 それがいつの時代かと言えば、少なくとも隋以前だと見てよかろう。暴君として有名な、第2代の煬帝(在位:604-618年)は百万人の民衆を動員し「京杭」大運河を建設し、北京、天津、河北、山東、江蘇、浙江をつなげたのである。米の道だ。 浙江省杭州→江南河 →揚子江→山陽瀆 →淮河→通済渠 →黄河→永済渠→天津 →温榆河 →北京 北京料理を山東料理の流れに位置付けるのも、この南からの文化の流れにハイライトを当てたくなったからと言えなくもなかろう。その切欠をつくったのは、おそらく国民党政権だろう。北京に山東省人料理店を開店させたに違いない。もちろん、蒋介石の故郷たる浙江省から広東辺りの料理も提供したに違いないと思うが。 北方料理は余り口に合わぬとなれば、それ以外に考えられないだろう。・・・山東省には、黄河の恵みをうける平原地帯の済南地区、半島先端の海鮮料理の煙台福山を含む膠東地区、祭典用宴会料理の伝統が根付いている孔子廟の地、曲阜があるからだ。ここら辺りの料理人を登用したくなるのは自然な流れ。 それが、時代の変化の波長にたまたま合ったため、北京料理が山東料理系とされたのでは。 下積み生活者の料理が注目されることなど有りえないので、大胆な推定をしただけだが。 ともあれ、そんなムードを後押ししたくなる心情も生まれていた状況も理解しておく必要があろう。毛沢東の大躍進政策と、プロレタリア文化大革命によって、中華大帝国という概念以外の伝統はすべて切り捨てられたことを想起すべきである。その揺り戻しが表れない筈がなかろう。北京料理の源流は山東にありというスローガンは、その動きにぴったりと嵌ったのである。 なにせ、黄河文明の継承者たる「殷」帝国の発祥の地とは山東省・河北省・河南省の境辺りなのだ。この伝統を引き継ぐものとして、北京の文化を位置付けたくなるのは致し方あるまい。 どこまで本当かはわからぬが、黄河に注ぐ渭水の、山西省・陝西省・河南省の境辺辺りが漢民族の本貫地らしいし、ここを聖地化したい気分になってもおかしくないのだ。「夏」の遺跡とおぼしき、仰韶は、ほとんど洛陽と呼んでもかまわない地域だし、帝「堯」は山西省を抜ける汾河の臨汾がベースだった。帝「舜」も安邑辺り。これらの山がちな地域が、漢民族の故郷なのだという感覚が急速に高まっている訳である。しかし、河南料理が漢民族料理の原点と言ったところで、誰も耳を傾けることはかろう。 それに、北京とは、漢民族文化の都市ではないとは口が裂けても言えまいし。 文化論の目次へ>>> 表紙へ>>> (C) 2014 RandDManagement.com |