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2014.9.23

歴史的建築の意義について

リノベーション建築は魅力的なものが多いが、それは単なるノスタルジーとか、伝統文化を残そうというだけではないような気もする。上野の国際子ども図書館で感じたことだが。
   「打ち放しコンクリート建築を眺めて」 [2014.9.15]

それを強く感じさせられた例をあげておこうか。

1年前に「こけら落とし」をした木挽町の歌舞伎座である。第5期目の建築に当たるという。

残念なことに、木挽町の名前は通用せず、もっぱら東銀座の歌舞伎座と呼ばれる。もっとも、小生の感覚では、銀座というより、築地地域だが。と言うのは、銀座から晴海通りを歩くと、その境はだだっ広い昭和通りということになるから。その交差点を渡ると人並みが途絶えてしまう状況が続いていたからである。
すぐ左には、大屋根の歌舞伎座があるというのに。
まあ、普通は寄り道などせず、地下鉄で行く人が多いからそうなるのは致し方ない訳だが。

この建物だが、歴史的建造物というほどの古さがあるとは思えない。ファサードは和風とはいえ、見るからに鉄筋コンクリート造りだからだ。なかに入れば、狭苦しい芝居小屋的雰囲気も残っており、確かに歴史を感じさせる建物であることは確か。
しかし、同じように歴史を感じさせるといっても、現代日本の経済発展を支えてきた、東京駅-丸の内界隈や日銀-日本橋室町と同じような位置づけはできかねるのでは。
建物としての歌舞伎座の価値をどう考えるかは、はなはだ難しいものがあろう。

と言うことで、その歴史を眺めてみた。
   「歌舞伎座百年」 (C) 2013 Kabuki Za

言うまでもなく、これは演劇目線。それを踏まえて、建物「作品」の観点で改めて整理すると、こんなところか。

【木挽町歌舞伎小屋】・・・町芝居小屋
 1642 木挽町五丁目に山村座創設[→1714 断絶]
 1658 木挽町三丁目に森田座創設[官許4座の1つ]
 1842 天保の改革で猿若町移転

【前歌舞伎座】・・・上流社交場
   守田座新富町移転
   新富座に改名

【初代歌舞伎座】・・・理想的大劇場
 1889 「歌舞伎座」開場
      福地源一郎主導 千葉勝五郎運営
      <設計>高原弘造

【改装歌舞伎座】・・・帝劇対抗純和式劇場
 1911 改装完成
      大谷竹次郎[松竹]運営
      <設計/請負>志水正太郎
 1921 失火で焼失

【再建歌舞伎座】・・・国劇の殿堂
 1924 開幕
      <設計>岡田信一郎
 1945 空襲で焼失

【復興歌舞伎座】・・・伝統踏襲の現代的和風劇場
 1951 開場
      <設計>吉田五十八
 2010 閉幕老朽化/耐震不足で取り壊し

【タワービル歌舞伎座】
 2013 オープン
      <設計>三菱地所設計+隈研吾建築都市設計事務所
      <監修>今里隆[杉山隆建築設計事務所]


完成したばかりの「歌舞伎座・歌舞伎座タワー」は、都合5期目の建築物となる訳だ。
コンペでは完勝と言われている隈研吾作品だが、わかる気がする。それほど広い土地でもないのに、伽藍堂的な柱が無い観客空間がド真ん中にくるから、高層ビルの土台にするには不適な条件そのもの。奈落のような舞台施設まで入るのだろうから、これらを勘案しながら、東京の状況に合わせたオフィスビルを建てるには、デザインのセンスだけではどうにもならない。技術を知り抜き、複合的なチーム運営に長けた、経験豊かな建築家の出番とならざるを得まい。そういう点で、当然の起用という感じがする。

しかし、見るべき点はそこではなさそう。
言うまでもないが、愛着がある建物とされるのは、単に、和風コンクリート構造というだけでなく、その雰囲気が独特だからだ。曰く、「奈良朝典雅壮麗 & 桃山時代豪宕妍爛」のデザインなのである。
これをなんとしても残そうということになったのだろう。

それはそれでよいのだが、歌舞伎座の建築で見るべきものは、その「伝統」とはいえまいか。
言うまでもないが、「奈良朝典雅壮麗 & 桃山時代豪宕妍爛」が最初から存在した訳ではない。しかし、それは建築家の「系譜」から生まれたもののようである。そして、現代のタワービル融合スタイルも、又、その「系譜」に沿って設計されたものと言えそうなのである。
それは、学問としての建築学の姿勢でもあり、歌舞伎文化伝承の姿勢でもあると見ることもできよう。

つまり、現代歌舞伎座建築とは、そういう観点での歴史的建造物ということになろう。古い建物のリノベーションとか、レプリカを残すというタイプとは質的に異なる訳だ。

あげられている設計/監修者を並べてみると、どういうことかわかるのではなかろうか。

今里隆[1928-]
 東京美術学校(現東京藝大)建築科卒
 同校 吉田五十八研究室で設計活動に従事
 <作品例>国技館,池上本門寺御廟所/大客殿,京都南座

吉田五十八[1894-1974] 文化勲章受章者
 東京美術学校で岡田信一郎に学ぶ
 同校 教職(東京藝術大学名誉教授)
 <作品例>中宮寺本堂,外務省飯倉公館

岡田信一郎[1883-1932]
 東京帝大工科卒
 東京美術学校講師
 <作品例>大阪市中央公会堂,明治生命館,びわ湖大津館

志水正太郎[n.a.]
 名古屋ベースでタイル利用建築設計・施工に活躍
 <作品例>旧大野銀行(大野宿鳳来館)本館

高原弘造[1845-1918]
 高松藩/工部省から英国派遣[建築学留学]
 ジョサイア・コンドルの助手(1名のみだったようである.)
 日本土木会社(大倉組→大成建設)技師長

ジョサイア・コンドル[1852-1920]
 <作品例>三菱一号館[レプリカ],三菱開東閣,綱町三井倶楽部

志水はジョサイア・コンドルの弟子ではなく、岡田との繋がりも見えないから、ここで断絶があると見ることもできるが、実態からすれば、伝承を引き継ぐ流儀は途切れていないようである。
重要なのは、直接関係はないジョサイア・コンドルの思想である。丸の内の三菱村の全体構想を生んだことで有名だが、これを鹿鳴館的な西欧文化の単純移入者と考えるべきではないと思われる。そういった風潮の時代だったが、「和」的文化をいかにモダン化するか考える人だったと見た方が当たっていそう。おそらく、留学帰国の日本人との交流からそういう思想になったのだと思うが、西欧に十分比する質を持ちながら、日本の文化的特質を入れ込むことに頭を使ったのである。
従って、弟子たる高原の思想ははっきりしている。
あくまでも芝居小屋だが、西欧の劇場に引けをとらぬ建築ということだろう。初代歌舞伎座は、見かけ煉瓦建築だが、当時の技術から考えるに、木筋で一部タイルの漆喰建築だった可能性もあろう。無理をするとは思えないからだ。
と言うのは、目ざしたものは機能性が高い演劇施設だから、小屋的な観客席ではなく、西欧的なもの。そして、芸術として打ち出せるような、舞台の独立性だったと思われるから。それには、どうしてもそれなりの空間が必要である。
そして、なんといっても重要なのは、モダン建築であったこと。それは、観客にとって、十分な明るさと、澱まない無臭の空気と、安全性であったろう。これがあって、初めて江戸の小屋から脱皮できたのである。

しかし、世は西欧文化崇拝であり、そうした風情の新建築にナンバー1の地位を奪われてしまえば、対抗上、コンドル流の「和」のテーストを強化する以外になかろう。その任に当たったのが志水ということだろう。西欧文化のタイルを使いながら、そこに「和」の造形美を取り込むことに熱心だったからの起用ではあるまいか。設計者とされているが、事実上施工者だと思う。モダンというか、「和」のテーストの西欧的高級感を醸し出す改装工事を行ったのだと思う。

しかしながら、火事で焼け落ちてしまった訳で、そうなれば、鉄筋コンクリート造りの堅牢な建物になる訳で、当時のピカ一建築家によって再建する以外に選択の余地はなかろう。
これが、驚くような才能の持ち主。ある意味、機用なのだろうが、オフィスビル設計に長けていると思いきや、純和風のファサードを作りあげたのである。以前の歌舞伎座の雰囲気を知り尽くしている人だったと思われ、伝承感を重要視している様子がうかがえる。しかし、同時に、劇場機能としてのモダンと安全性にはこだわりが感じられる。無理はしないが、技術的にできることはやってみたからこその和風建築だと言えよう。
岡田→吉田→今里の学問的系譜は、こうした姿勢を貫く一筋の糸となっているように思える。
日本における現代モダンの頂点に立つ隈研吾がこの流れにそのまま乗ったということであろう。

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