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2015.1.16

聖書の食禁忌戒律について

聖書における肉食タブーについて話をしてみたい。
  稿を改めてということで。[→]

この議論は、表面的にはわかり易いものが多いが、混乱を生み出し易いので要注意である。

聖書に記述されている内容を素直に解釈する話[1]と、それが現代世界でも通用する理由[2]が峻別されないことが多いからだ。後者は後付解釈だが、それこそが戒律受け入れがスムースに進んだ理由である可能性が高く、聖書が経典として広く普及するようになった由縁なのかも知れない。そうだとすれば、後者が信仰の広がりに大きく寄与した筈だから議論の中心になりがち。しかし、それは聖書の本質論ではない。
例えば、豚肉禁忌だが、現在のようなSPF豚が提供されていない時代なら、加熱不十分の食の衛生上のリスクは高い。さらに、ヒト・動物共通感染症の広がりを防ぐという観点から、豚飼育をお勧めしないというのは理にかなっている。それに人の排泄物まみれになったり、それを餌とする状況は、気分的に好ましいものではないかろう。
従って、聖書はそのような点を考慮していると言う人は少なくない。
小生もそう思う。しかし、それは上記の[2]という意味。聖書を経典とする信仰が広がったのは、その内容に説得力があったからこそ、信じることができた筈。そういう点では、豚肉禁忌は衛生上の意義があったと解釈するのは至極妥当といえよう。
しかし、それと、神が語ったと伝わる内容が同一という話[1]は次元が異なる。

これからの話はもっぱら[1]である。
そして、その対象は、家畜化に関係する「食の禁忌」。

ご存知かも知れぬが、この観点で聖書を読むと、矛盾しているように感じる人も少なくない。専門家でも、そのまま文章を分析的に解釈するとそうならざるを得ず、おそらく、なんらかの妥協的な姿勢を示したものだろうということになる。
しかし、単純に読めば、そういう感じはしない。人によって受け取り方は違うとは思うが。

少々長くなるが、口語訳[日本聖書協会 1955年]の原文を引用しながら、その辺りをご説明して見よう。

ここでは、「命あるものには、食物としてすべての青草を与える」ということで、肉食禁忌を言い渡しているようにも見える。
創世記1:11
  神はまた言われた、
  「地は青草と、
   種をもつ草と、
   種類にしたがって種のある実を結ぶ果樹とを
   地の上にはえさせよ」。
  そのようになった。

創世記1:20-22
  神はまた言われた、
  「水は生き物の群れで満ち、
   鳥は地の上、天のおおぞらを飛べ」。
  神は
   海の大いなる獣と、
   水に群がるすべての動く生き物とを、
   種類にしたがって創造し、
   また翼のあるすべての鳥を、
   種類にしたがって創造された。
  神は見て、良しとされた。
  神はこれらを祝福して言われた。
  「生めよ、ふえよ。
   海たる水に満ちよ。
   また鳥は地にふえよ」。

創世記1:25-27
  神は
   地の獣を種類にしたがい、
   家畜を種類にしたがい、
   また地に這うすべての物を種類にしたがって造られた。
  神は見て、良しとされた。
  神はまた言われた、
  「われわれのかたちに、
   われわれにかたどって人を造り、
   これに
   海の魚と、
   空の鳥と、
   家畜と、
   地のすべての獣と、
   地のすべての這うもの
    とを治めさせよう」。
  神は
   自分のかたちに人を創造された。
  すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。

創世記1:28-30
  神は
   彼らを祝福して言われた、
  「
生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。
   また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。

  神はまた言われた、
  「わたしは全地のおもてにある
   
種をもつすべての草と、
   種のある実を結ぶすべての木とを
   あなたがたに与える。
   これはあなたがたの食物となるであろう。

  また
   地のすべての獣、
   空のすべての鳥、
   地を這うすべてのもの、
   すなわち
命あるものには、
   食物として
   すべての青草を与える」。

  そのようになった。

明確に分類概念が示されており、生き物を「種類にしたがって創造」した訳でことがわかる。
  ○地上で動かないもの
     青草、種ある草、種ある実が生る樹木
  ○動くもの
   空・・・翼のある飛ぶ鳥
   水・・・すべての動く生き物
     【海】魚、(大いなる獣)
   地・・・家畜、獣、這うもの
これらに該当しない生き物は神が創ったものとは限らないということになろう。翼があっても、飛ばない「鳥」なら、神のご意志に反して飛ぶことを止めたか、神以外によって作られた紛いモノかも知れぬことになる。
少なくとも、上記に該当しないなら、神が創った「聖なるモノ」とは認められないことになろう。

ところが、ノアの箱舟後にヒトには動物食が認められる。
創世記9:1
  神はノアとその子らとを祝福して
  彼らに言われた、
  「生めよ、ふえよ、地に満ちよ。

創世記9:2
  地のすべての獣、
  空のすべての鳥、
  地に這うすべてのもの、
  海のすべての魚は恐れおののいて、
  あなたがたの支配に服し、

創世記9:3
  すべて生きて動くものは
   あなたがたの食物となるであろう。
  さきに青草をあなたがたに与えたように、
   わたしはこれらのものを皆あなたがたに与える。

創世記9:4
  しかし肉を、
   その命である血のままで、
   食べてはならない。

創世記9:5
  あなたがたの命の血を流すものには、
   わたしは必ず報復するであろう。
   いかなる獣にも報復する。
  兄弟である人にも、
   わたしは人の命のために、
   報復するであろう。


文脈からいえば、ノアの神への対応が評価され、その一族だけに肉食が許されたということになるのでは。
しかし、神が創った陸上の生きモノは草食だから、草食以外の動物食は禁忌ということになろう。
創世記8:20
  ノアは主に祭壇を築いて、
  すべての清い獣と、すべての清い鳥とのうちから取って、
  燔祭を祭壇の上にささげた。

創世記8:21
  主はその香ばしいかおりをかいで、心に言われた、
  「わたしはもはや二度と人のゆえに地をのろわない。
  人が心に思い図ることは、幼い時から悪いからである。
  わたしは、このたびしたように、もう二度と、すべての生きたものを滅ぼさない。

創世記8:22
  地のある限り、種まきの時も、刈入れの時も、
  暑さ寒さも、夏冬も、昼も夜もやむことはないであろう」。

清い鳥と清い獣という表現だが、「清い」が定義されていない以上、それは、神が創った草食の生き物を指しているのでは。
つまり、神への供物は神が創った羊そのものである生肉は、「清い」から、よいが、神以外の生産物である、乳は駄目ということになる、その醗酵生産物(チーズ)などもっての他となろう。

「供え物」は厳格に規定される。ヒトが勝手に良かれと考えるようなことは許されないのである。
レビ記1:2
  「イスラエルの人々に言いなさい、
  『あなたがたのうちだれでも
家畜の供え物を主にささげるときは、
  牛または羊を供え物としてささげなければならない。

家畜は牛と羊に限定せよとされている。その理由は、神が決めたことを遵守しているからでは。
 ・もともと生き物に与えた食べ物の草だけを食す。
   勝手に食の対象を広げてはいない。
 ・ヒトに従うとの規律に従っている。
   ヒトに従順で反抗して逃亡を企てない。
様々な家畜が存在していることが伺える言い回しになっているが、牛と羊以外にも「清い」とみなされていそうな家畜が存在する。
レビ記1:10
  もしその燔祭の供え物が群れの羊または、
  やぎであるならば、
  雄の全きものをささげなければならない。

この部分、家畜化の原初を彷彿させる戒律と言えるのではなかろうか。・・・山羊を母仔隔離することで始まったとすれば、成長した雄仔山羊は屠殺する必要があるからだ。
当然ながら、これは最重要な儀式だろうから、供物についての戒律に従わないものは罰せられる。
レビ記17:3-4
  イスラエルの家のだれでも、
  牛、羊あるいは、やぎを宿営の内でほふり、または宿営の外でほふり、
  それを会見の幕屋の入口に携えてきて主の幕屋の前で、
  供え物として主にささげないならば、
  その人は血を流した者とみなされる。
  彼は血を流したゆえ、その民のうちから断たれるであろう。

「血を流す」必要があるなら、まずは神に捧げよということ。それを無視したり、血をすするが如き姿勢を見せた者には容赦しないのだ。
レビ記17:10-12
  イスラエルの家の者、またはあなたがたのうちに宿る寄留者のだれでも、
  血を食べるならば、
  わたしはその血を食べる人に敵して、わたしの顔を向け、
  これをその民のうちから断つであろう。
  
肉の命は血にあるからである。
  あなたがたの魂のために祭壇の上で、あがないをするため、
  わたしはこれをあなたがたに与えた。
  血は命であるゆえに、あがなうことができるからである。
  このゆえに、わたしはイスラエルの人々に言った。
  あなたがたのうち、だれも血を食べてはならない。
  またあなたがたのうちに宿る寄留者も血を食べてはならない。

つまり、神の了解を得ずに、神の創った生き物を勝手な都合で殺戮するなということ。
ただ、ノアの箱舟以降は「生めよ、ふえよ。」が最重要指示だから、そのために殺戮止む無しとなれば神が容認するのは自然な流れだろう。
従って、本来的には肉食用家畜でなかったと思われる山羊であり、殺戮の必要性はなかった訳だが、群れの維持・拡大に牡の間引きが不可欠ならば殺戮を行えということになる。
同様に、肉は食すべきではないが、ヒトの「生めよ、ふえよ。」に不可欠な行為なら行えとなろう。
しかし、ここには大原則があって、「血」を食べることはまかりならぬということ。と言っても、血無しの肉はありえぬから、血を流し終えた生き物以外の食は許さぬとなる。
もちろん、その流れた血は神に捧げるもの。血を食料とするなどもってのほか。罰せられて当然となる。
但し、それは、誰にでもあてはまる訳ではない。
レビ記18:2-4
  「イスラエルの人々に言いなさい、『わたしはあなたがたの神、主である。
  あなたがたの住んでいたエジプトの国の習慣を見習ってはならない。
  またわたしがあなたがたを導き入れるカナンの国の習慣を見習ってはならない。
  また彼らの定めに歩んではならない。
  わたしのおきてを行い、わたしの定めを守り、それに歩まなければならない。
  
わたしはあなたがたの神、主である。
牛と羊を家畜とする国の人々は、山羊から始まった草食動物の家畜化の風習を大切にし、その主に従えという命令が発せられた訳である。当然ながら、異国の習慣は見習ってはいけないとなる。
食の分野では、それを禁忌と呼ぶだけのこと。
他国で通用しにくい戒律の筈であるにもかかわらず、この経典が他国で次々と受け入れられたのは、禁忌にそれなりの意義が感じられたからに他なるまい。
これを議論しだすと、冒頭での[2]の話になってしまう訳である。


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