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2015.4.5

日本人のカエル観

カエル展示の話を書いていて、気付いたことがあったので追加。[→「蛙見物」]

いうまでもなく、カエルは、水棲でもあり陸棲でもある。名付ければ、"両棲"動物/Amphibian/。該当するのは、【無尾】の"カエル"以外は基本的に【有尾】の2種類。
  山椒魚/(primitive) Salamander/鯢
  井守 or 赤腹/Newt/(紅腹)蠑
但し、分類学上では、蚯蚓類あるいは蛇類としか思えない、【無足】の足無井守/Blindworm/无足蚓 or も含まれる。
鰓呼吸、皮膚呼吸、肺呼吸という見方が古くから確立していたとは思えないから、これらの生物を一括りにする分類観は結構新しいものだと思う。

そんなことが気になったのは、和名-英語名-中国語名を見ていて、日本だけが全く異なる感覚の分類をしていたから。情緒的な見方だが、それが実は本質に迫っている可能性が高そう。勝手な推定ではあるものの。

日本語だと、さも当然のように「カエル」と言う。英語に訳す時は「Flog」だし、漢字で書くなら「蛙」である。しかし、実際はそうではない。「Toad」は「Flog」では無いし、「蟾蜍」も「蛙」には含まれないのである。しかし、和名はガマガエルあるいはヒキガエルであり、あくまでもカエルの仲間という認識。感性的に全く違っていることがわかる。ちなみに、化石類似種は和名は「昔蛙」であり、「New Zealand primitive Flog」だが、「滑蹠蟾」となる。

おそらく、「Flog」とは、後肢の筋肉-間接構造が極めて発達している点に注目している言葉ということになろう。敵前逃亡、あるいは、餌物捕獲行動は、突然のジャンプで始まることこそが一大特徴と見ていることになる。
この範疇を指す漢字が「蛙」。
  蛙=虫+圭(土 x 2)
圭に人偏だと人品優れた方を指すし、女偏にすれば、外形も中身も美しい素晴らしい美人という意味になる。木偏の樹木も大いに愛でられてきた。そういう扱いとは思えないし、土に潜ることはあるといっても、それなら他の著し方があろうから、これはジャンプする後ろ足の形と見るべきかも。

日本では、「Flog」のジャンプに注目したのは小野道風くらいだろう。注目しているのはもっぱら鳴き声の方。
要するに、カエルは歌垣で生きていると見抜いて、親近感が湧いたということ。西洋や中華文化では忘れ去られた古代感覚である。それこそ、日本の古代人の頭には、"鳴き声暦"が入っていたのでは。
福山欣司:「カエルなぜ鳴くの?」 MAR./APR. 2013 No.532 「自然保護」[pdf]

そんなこともあって、日本でカエルと言えば先ずは「雨蛙」。これは、降雨時に登場するという意味ではなく、水田近くに集まって「雨鳴き」することに感じ入ったことからだろう。もっとも、貴族からすれば、夕立でも来そうな時に鳴くから、その思い入れもあるかも知れぬ。木の葉っぱに吸盤で留まるタイプだから、庭には多かった筈だし、雨に打たれても平然と葉上に居たりするのが面白かったりする訳で。

そして、渓流辺りに棲むカエルも良く鳴く。こちらは鹿の声に擬して「かはづ」こと「河鹿蛙」と呼ばれた。
(魚の鰍/杜父魚との混交が発生。辞典によれば、古名は石伏である。鳴く訳もなく、鹿肉あるいは、河鹿蛙並の身の美味しさということだったか。)
  瀬を速み 落ち激ちたる 白浪に
   かはづ鳴くなり 朝夕ごとに
  [万葉集巻十2164]
貴族は、この声をえらく気に入っていたようだから、ペットとして飼っていた可能性もあろう。

もっとも、「Flog」のジャンプを無視していた訳ではない。水田周辺の水系統の草叢には「殿様蛙」が必ず住んでいて、そこを通りがかればピョンと跳ねるからだ。吸盤無しタイプであり、溝に落ちればアウトだから、今では、滅多に見かけなくなっていそう。
鳥獣戯画では、その後肢の動きの特徴がよくとらえられている。従って、その生態は貴族層にもよく知られていたと見てよかろう。相撲場面も、この種の持つ縄張り意識を現している訳で。鳴き声もそれなりの威厳ありと見なされたのだと思われる。

一方、ジャンプ力に乏しい"カエル"がガマことヒキガエルである。こちらは、「Toad」であり、中国語でも「蛙」とせず「蟾蜍」。
日本の語彙は古い表現なのだと思われるが、「蟇蛙,蝦蟇 or 蟆」である。ガマとは蝦蟇の音臭いから、外来語を接頭語につけたカエルということだろう。従って、基本漢字は以下と見てよかろう。
  蟇 or 蟆=虫+莫
莫は暮,寞,漠という文字に当たるらしいから、草叢に夕日が沈む状況を示す文字のようだ。夕方にガサゴソ蠢くということか。これが字義だとすれば、「ヒキ」という和語とは無関係と見てよさそう。小生としては、惹くとの意味ではないかと推定したくなるところだが、古語はヒキではなく、グク。しかも由緒ある言葉だった模様。濁音なので、元は少々違う気もするが。
言うまでもないが、古事記のタニグク[多邇具久]のこと。
大国主が来訪してきた小さな神[少名毘古那神]の名前を尋ねる話に登場。これは、谷蟆 or 谷蟇。このことは、ヒキガエルは、国土の隅々まで知り尽くしていると解釈するしかなさそう。ある意味、地上を這い回る支配者とも言えよう。[国学院大学 万葉神事語辞典 たにぐく]

その思想は、中国におけるヒキガエル特別視と同根と言えそう。・・・
月に昇った仙女 嫦娥は蟾蜍と相互変身するようになった。
ところが、「蟾蜍」を「顧菟[兔が同音]」と記載。そこで、「玉兔」となったという。[月里怎了嫦娥?嫦娥与蟾蜍曾互身 2011年09月12日 16:56 来源:北京@中國新聞網]
月に兎は、古くは月とカエルとはよく聞く話だが、それはヒキガエルであって、ジャンプする蛙ではない訳だ。

ヒキガエルには、鳴き袋が無いため、声は目立たないが、紛れもなき歌垣動物。従って、日本では蛙でよいのである。当然ながら愛すべき対象なのである。
  尾花沢にて清風といふ者を尋ぬ。・・・
  長途のいたはり、さまざまにもてなしはべる。・・・
  這ひ出でよ 飼屋が下の 蟾の声

     [おくのほそ道]
芭蕉は古代人感覚で詠った訳である。

そうそう、食物観もサラリと見ておく必要があろう。日本でも、カエル食の習慣はあったと思うが、ヒキガエルに対する心情から見て、カエルを一般的食材と見なすことには抵抗感があったに違いない。ヒキガエルと他は違う動物と見なす人々には、そんな感覚ゼロ。

カエルの様態、「お玉杓子/Tadpole/蝌蚪」だが、、中國人當做食物とか。倭の場合、その時期に救荒に遭遇することはなかろう。いかにも、内臓に泥が入っていそうだから、わざわざ食すとは思えない。
おそらく食欲の対象になるのは四肢がついた「仔蛙」から。中国では「4脚魚仔」と呼ばれていたようだ。
さらに育てば、言うことなしである。大陸産は、日本より体躯が大きいから、良質な食材として扱われることになる。その場合の名称は「水」。(旁は"大きな"「鳥」ではなく、"小きな"「隹」。)まあ、フランス料理でもその味は淡泊で鶏肉と遜色なき肉だから当然のこと。

こうして眺め回してみると、カエルとは、「淡水」に「カエル」ということを意味する言葉と言えそう。水場から遠く離れていれも、必ず戻るという習性を持つ動物との概念である。これは正しく"両棲"を指す。
倭人は、カエルの本質を見抜いていたのかも。

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