表紙 目次 | 2015.9.16 漢語はクレオール的融合言語では傈僳[リス]族に関心が湧いたのだが、[→] 残念ながら欲しい情報は乏しい。観光写真はそこそこ見かけるが、文化に関する情報は僅か。少数民族は政治問題化し易いからまあ致し方あるまい。ただ、言語に関しては研究者が存在するので、興味があればそれなりに色々とわかってくる。 特段、少数民族の言語に関心がある訳ではないが、なにか惹かれるものがあり、猫に小判的な論文まで少々眺めてしまった。と言うのは、数字の読み方が日本の音読みと同じで、青色と緑色が区別されていなかったりすから。同じ頃に同じソースから語彙が伝わったのかも、とついつい考えたくなる訳。 それはともかく、表記方法は決まっているようで、もちろん漢字ではない。日本と違って、文字表記が始まったのは新しい。と言うことは、おそらくどんな表記方法であろうとかまわなかった可能性が高い。本貫地が西部中原の羌族の末裔らしいから、甲骨文字に無縁だった筈もなく、漢字を早々と導入してもよさそうに思う。あるいは、羌族の一派と言われるチベット族の文字を使っていてもよかったのに。定住民だというのに、どうして文字表現を避け続けたのだろうか。 早くに漢字表記を始めた日本のセンスとは随分と違う。漢字表記がそれほど難しいとは思えないから、ついついそう思ってしまうのだが。 どういうことか例でご説明しよう。 先ず、日中対訳で漢字導入のやり方を見ておこう。 【漢語】秋天北京的紅叶很看好。 【日語】 北京の 秋の 紅葉は とても きれい(綺麗)です。 文章から想像がつくと思うが、中国での「叶」は「葉」。日本語からの変換の方がわかり易いので説明すると、「とても」は「很」。小生は「非常」としたくなるが。綺麗は「看好」だ。"なかなか良いネ"位のニュアンスか。(可愛いとか美しいとの概念なら「漂亮」の方がよさげ。 漢語は単語がブツ切れ状態で、接頭語や接尾語は不要で、活用表現も無し。実に単純である。 従って、漢字単語をそのまま使って日本語に翻訳するのはたいして難しくない。ただ、単語の読み方は日本語では異なる。それは、中華帝国の地方読みと同じようなもの。 ただ、単語文字だけでは、日本語にならないので、助詞を加えることで、各単語の位置付けを示す必要がある。以下のように翻訳できる訳だ。 【原文】秋天北京的紅叶很漂亮。 【日式直訳】 秋([の]時節)、北京の紅葉[は] 非常[に] 綺麗 <です>。 さて、これがリス語だとどうなるか。 【傈僳式訳】 北京的 秋天時 [助詞] 紅色的叶子 [助詞] 很 漂亮。 日式とは、助詞や助動詞を多用する言語であり、傈僳式もよく似ている。助詞を利用することで、どのような文法の言語でもたちどころに対応できる仕組みといえよう。できるだけ簡単な文章にしたい心根があると、このようなタイプになるのではなかろうか。 実は、簡単な文章とはそんなものだからだ。 【原 文】I am a boy. 【日式訳】私[は] ボーイ <です>。 【漢式訳】我是個男孩。 【再直訳】我[は] 一人(の) 男の子 <です>。 ちなみに、印欧語族とは異なる、アルタイ語族とされているチュルク系の文章はこうなる。誰が見たって同族言語と思うだろう。 【ト ル コ】Ben bir erkeğim. 【ウズベク】Men bola emasman. 【カ ザ フ】Men bala senimdimin. さあて、これでは、何を言い出そうとしているか皆目想像もつかないかも。 全くの仮説でしかないが、漢語とは、漢字を用いたクレオール語のようなものでは。 今回は、そのお話。 そもそも「漢民族」自体が、極く狭い中原から、広範な地域に居住する様々な人々を含む状況にまでに変貌を遂げている訳で、その間、様々なタイプの言語が融合集約されてきた訳である。 ただ、この見方は西洋発祥の言語学のドグマに反する。異端を通り越している主張だと思う。 なにせ、印欧言語ツリーによって、言語の進化系統が明らかにできたのである。言語融合論を議論すること自体、この成果の土台たるドグマを壊す取り組みに加担することになるのだから、そんな姿勢が生まれる訳がない。 その西洋のドグマは、多分、以下の3本柱からなる。 「純性」モデル言語を想定できる。 言語には境界がある。 言語には文法のようなルールがある。 換言すれば、各言語には生まれた時から変わらない独特で根源的なルールがあるということ。進化/退化はいくらでもあるが、ルールの融合だけはあってはならないのだ。 と言っても、言語間の影響が小さいとの主張をしている訳ではない。他言語の語彙の移入はいくらでも発生するから、それがあまりにも大量だと、一見融合したように見えることは大いにありうるとの理屈。しかし、そうなっても、大元が変わってはいないと見るのだ。 つまり、どの言語も、"例外無く"、祖語に赤い糸で繋がっていると考える訳だ。系統ツリーが描け無くても、どの言語にも必ず祖語が存在していると考えるのである。従って、日本語など、取扱いにこまる言語になってしまう訳だ。どうにもならないので、孤立語というカテゴリーを作るしかなくなる。 小生は、日本語同様、漢語でも、この見方で臨むのは無理筋と見る。様々な言語の融合体と考えるからだ。 ただ、クレオール語とは成り立ちが違うので、そこは注意しておく必要があろう。・・・ 宗主国言語と奴隷側言語を混じり合わせることで交流用言語(ピジン)が生まれ、母国語が消えても残ったのがクレオール。漢語はそのような環境で進化した訳ではない。 元祖「漢語」が存在したと仮定して考えるとわかり易い。その周囲は蛮夷戎狄の言語。「漢語」との共通性はほとんどないと見てよいだろう。しかし、それらの蛮族との交渉は始終不可欠。その場合、どのような姿勢で臨んだか考えておく必要があろう。中華思想からすれば、こうなるのでは。 蛮族の言語など学ぶ必要は無い。 支配者の言語を蛮族に教えるべきでない。 読み取られれば、交渉で不利になる。 但し、蛮族でも帝国官僚希望者はOK。 帝国高級官僚はマルチリンガルである。 と言っても、蛮族支配を実現すれば、交渉は不要となり、上記の柵は霧消。「漢語」のみが公的言語となり、蛮族語は大衆言語のみとなる。その一般民衆が「漢語」を取り込み始めれば、ピジン化発生である。 しかし、注意すべきは、中華帝国の支配者たる天子は「漢語」話者で無いことが多い点。蛮族語だったりする。しかも、革命的に天子は入れ替わる風土とくる。そうなると、言語はコロコロ変わりかねない訳だ。一方、官僚層は革命後も残るから、言語ご破算をするとは思えない。 従って、新しい支配者言語と今迄での国語たる言語を同居させるように取り図るに違いあるまい。その結果が「漢語」では。語彙の単純羅列型へと純化していかざるを得ないのである。これは、奴隷語が支配者語を取り入れるピジン化となんら変わりない。特徴を記せばこうなろうか。・・・ 名詞は単複同形で性区別無し。 単語の語頭/語尾変化無し。 主語と述語の対応変化無し。 動詞等の活用無し。 時制/完了継続は動詞修飾語で表現。 名詞修飾用補助用語が明瞭。 強調したい場合は文字繰り返し。 簡単に言えば、語形変化極小化と時制文法回避。それに加えて、文章構造が単純。 基本は、「主語+(否定)+述語」 述語の前に、時制/完了継続の用語 述語に関係する単語(目的語等)はその後 蛮族は、ピジン化が進み、蛮族語が廃れ、クレオール化していく。語彙が統一されていけば、その言葉はほとんど「漢語」である。と言うか、そこまで進むということは、支配者層の「漢語」も影響を受けるので、新「漢語」が生まれるのと変わらない。 クレオールと違うのは、語彙がとてつもなく肥大化する点。語彙提供を受け、単語数を限定化するのではなく、両者の単語がそのまま同居しその後篩にかけられて優位な単語が残っていく仕組みだからだ。 日本語と違い、声調があるのは、様々な蛮族語を取り込んでいく過程で語彙が増大するため、母音子音だけでは表現能力不足になるからだと思われる。単語の多義化を避けたいということでもあろう。ただ、日本人的感覚からすると、語彙は多いが、情緒表現用の単語は少ない。そこの標準化は難しいので、余り使われないということかも。 (参照) 西田龍雄:「リス語の研究 タイ国ターク県におけるリス族の言葉の予備報告」 東南アジア研究 5(2), 276-307, 1967-09 京都大学 西田龍雄:「リス語比較研究1」ibid., 6(1), 2-35. 1968-06 欧光明&李文字/朝克主 編:「[中国少数民族会話読本]傈僳語366句会話句(漢英日俄対照)」 社会科学文献出版社 2014 文化論の目次へ>>> 表紙へ>>> (C) 2015 RandDManagement.com |