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「我的漢語」
2014年10月29日

白川漢字学の壁が気になるクチ

漢字の部首「口」とは祝詞容器と看破したのは漢字学者の白川静[1910-2006]。甲骨文字や金文を徹底的に研究した成果を「字書」にまとめあげた孤高の人である。  (→ 「示偏」[2014年2月7日])

白川静著作集[1999-2000年]は12巻にのぼり、さらに8巻もの「説文新義」が出版されており、学問的にも貴重な甲骨金文についての文集が続々と刊行予定。

素人にはとても手出しできぬ世界だが、「口」偏の漢字をどう考えるべきかえらく気になる。・・・白川論は、結構、本質的な問題を抱えているとも言えるからだ。
言うまでもないが、素人がそう解釈したということではなく、大家自身が、示唆しているにすぎない。まあ、そんなことを気にせずに、白川思想に酔いしれるのも一興ではあるのだが。

と言うことで、その辺りを書いておこう。

なんといっても、白川漢字学の真髄は、甲骨金文の実物をもとにした実証性にある。
従って、門外漢には、冒頭に示した「口」が祭祀器「サイ」という文字の指摘には圧倒される。成程、そうだったのかと、まさに目から鱗。
しかし、だからこそ、そこに、白川学が提起した壁が存在しているとも言える。

「サイ」はいわば祝詞容器。それが部首として「口」になっている訳だ。似たものに、「クニ(国)」構えがあるが、こちらは□のなかに文字が入っているから、すぐに峻別できる。しかし、「サイ(祝詞容器)」と、「クチ(mouth)」は別な概念であるのにもかかわらず、同じ文字。部首名としてはあくまでもクチ偏。
と言えば、何を問題にしているか想像がつくのではなかろうか。

「クチ(mouth)」の概念は一般的には開口部と考えられる。その発祥は、ヒトの体の、内と外を仕切る扉のようなものだろう。
一方、「サイ」は祝詞(のりと)が入った蓋つきの容器だ。両者を「口」という形で表現するということは、同一視していることになる。さすれば、「クチ(mouth)」は、魂が密封されている体腔と口唇という蓋を一体として見なしていることになろうか。
まあ、言葉が魂から醸し出されるモノとすれば、見方としてはわかるが、これではこまるのである。
口の機能はそれだけではないからだ。
音や魂とは直接関係が無いと思われる、気体/液体/固体といった物質の出入り口でもあるからだ。魂の密閉容器としての機能とは全く異なると言わざるを得まい。そして、「クチ」偏文字には、そのような機能を表現するものが含まれている。

問題は、この「クチ(mouth)」系文字と、「サイ(祝詞容器)」系文字の差違を甲骨金文から現代までのすべての「口」部首で識別することができない点。白川流方法論とは、状況証拠から判断して二分しているにすぎない。素人からすれば、あまりに恣意性が高すぎるという感じがする訳だ。「サイ」が発祥との「センス」には敬意を払うものの、その説は正しいと認定はしかねるのだ。
なかなか難しい問題である。

要するに、甲骨文字の意味は、結局のところ大胆に推定しかない訳で、もっぱらセンスの世界である。

それがよくわかるのは「面」という漢字。

おそらく、頭の両耳より前の部分を正面から見た形状を指す言葉だと思われる。左は篆書だが、「面/」とは,「𦣻」を顔の輪郭で囲んだ文字ということが一目瞭然。
言うまでもないが、「首」とは「𦣻」に髪がついたもの。上部の横線の上は毛髪であることは明らか。

しかし、これが甲骨となると、唸ってしまう。

隷書の「𦣻」と同じとは言い難しである。
言うまでもなく、白川論では仮面から目がのぞく象形と断じる。
確かに、ここに記されているのは甲骨文字の「目」である。だが、この辺りの論理が難しいところ。
先ず、輪郭線から、これを仮面とする理由は極めて薄弱である。なかに入っているのが、「𦣻」でなく、「目」だからというだけでは。それに、一つ目仮面というのも考えにくかろう。これが「面」を表す篆書の祖形というなら、素人的には、大きな1つ「目」ではなく、両目と鼻で、口は閉じているので省略と考えるしかないと思うのだが。

それに、この大きな1つ「目」が、人体のEyeとしての「目」と同一とは限らない。
「クチ(mouth)」と「サイ(祝詞容器)」の表示はいずれも「口」となるのだから。

以上はあくまでも理屈。

小生は白川説が当たっていると見る。古代人の宗教観を見抜いていると考えるからである。
甲骨や金文の時代は、言葉や文字に絶大な力があると信じられていたに違いない。伝達用の道具と化している時代の感覚で、連続的な発展を考える訳にはいかないのではなかろうか。残念ながら、それを証明する手段が見つからないが。


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