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「我的漢語」
2015年5月31日

麦秋イメージに触れる

「麥 or 麦」の上半分は「禾」だと言う。小生はいくら眺めても「來 or 来」としか見えない。もちろん、部首は「人」であるが、同じ形なので意味は違っても一緒にしたということか。穀類なのに、「禾」が欠落しているのはおかしな話なのはわかるが、しっくりしない。まあ、そうかなで我慢するしかない。と言うか、素人的には麦の穂の形に似ているなと思うだけのこと。
一方、どうにもわからないのが、下半分の「」。通常位于字上側だからだ。(从後至也。象人兩脛後有致之者。---説文)
白川論では、麦踏。
」、「又」、といった文字は「足」のなんらかの形か機能を意味していそうだから、理屈はつくが、そんな作業をはたして行ったいたのだろうか。常識人としては、下半分に付着する「儿」的な部首と同じと見て、わざわざやって来てくれた作物を現していると解釈することになる。
と言うか、こう考えるのである。
  「麥」=「來」+【儿的
   【ここでの「來」】=「禾」+【人々】

麥の有難さは、日本人の「稲」と同じようなものということ。

こんなことを考えていると、麦秋の意味も恣意的な解釈で覚え込まされたのではないかという気になってくる。いかにも古そうな漢語だからだ。
  靡草死、麥秋至。[礼記月齢38]
お気づきになるかも知れぬが、「秋」を、12ヶ月的な感覚でのAutumn的な文字と見てよいかはなんとも。
  「秋」=「禾」+「火」
無数の穀粒が付いた穂が垂れた状況を示すと考えられる「禾」に火入れしている訳で、陽光で乾燥させていることを示す文字。一番古い秋は、おそらく「(粟) 秋」。従って、「稲秋」と言う用語も使っていた筈だ。二期作可能な地域だと「秋」は年2回生じただろうし。

そんな気分で麦秋を眺めてみたい。

すでに、張問陶が帰路に丁度端午節で、詠んだ詩は麦秋だった。「桜散る」と知らされた時の気分がわかるだけに、人々の心をとらえるのだろう。
   「端午節の漢詩」[2015.5.5]

礼記の麦秋を引いたので、殷王朝の王族(紂王の叔父で朝鮮建国者として現地で死去)が詠んだ歌をイの一番に引用する必要があろうか。

    「麥秀歌」 箕子 胥余
  麥秀漸漸兮、禾黍油油。
  彼狡僮兮、不與我好兮。


唐詩も有名らしきものがあるが、断片がかろうじて残っているといった風情である。

    「句」 李嘉祐 [全唐詩卷901_25]
  巴峡猿声催客泪、胴梁山翠入江楼。
  (江晩望陪楊園)
  千峰鳥路含梅雨、五歳蝉声送麦秋。
  (《發青泥店至長余縣西涯山口》)


良く知られるのはやはり陸游の作品か。ここまで来ると鑑賞の対象。

    「村居書觸目」 陸游
  雨霽郊原刈麥忙、風清門巷晒絲香。
  人饒笑語豐年樂、吏省征科化日長。
  枝上花空閑蝶翅、林間椹美滑鶯吭。
  飽知遊宦無多味、莫恨為農老故郷。


    「初夏道中」 陸游
  桑間椹熟麥齊腰、鶯語惺惚野雉驕。
  日薄人家晒蠶子、雨余山客賣魚苗。


小生的には、いかにも麦秋感が漂うのはもっと後世の作品。

    「江山道中蠶麥大熟三首」 楊萬里[宋代]
  衢信中央兩盡頭、蠶今歳十分收。
  穗初黄後枝無香A不但麥秋桑亦秋。

    「其二」
  黄雲割露幾肩歸、紫玉炊香一飯肥。
  却破麥田秧晩稻、未教水臥斜暉。

    「其三」
  新晴戸戸有歡顔、晒繭攤絲立地乾。
  却遣繰車聲獨怨、今年不及去年閑。


・・・日本的感興とは大分違うかナという気がしてきた。
秀逸な一句を引用させて頂こう。

  麦秋の 中なるが悲し 聖廃虚 水原秋櫻子[1892-1981]

おそらく、大陸人からしてみれば、「悲し」ではなく「嬉し」では。人饒笑語豐年樂こそが華。
「夏草や 兵どもが 夢の跡」の世界に住んでいるとは思えない。偏見かも知れぬが。

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