表紙
目次

「我的漢語」
2015年8月6日

尚歯会を調べてみた

台北故宮博物院所蔵品に香山における九老の沈香木彫像がある。絵画「香山九老圖」の木彫バージョンといえるもの。
詩文も記載されているが、以下のようなものらしい。
  風流少傅十年間、結社香山共往還。
  漫道滄桑多変幻、試看常住是香山。

          惟精惟一 乾隆宸翰

香山九老が845年(武宗會昌五年)に集まった故事にちなむ作品だが、宗教的な雰囲気を感じさせるものに仕上がっている。
九老とは、自称号香山居士[僧如満之弟子]の白楽天[74才]が主催した“七老会”のメンバー、胡杲[89才]、吉皎[88才]、鄭据[87才]、劉真[87才]、盧真[82才]、張澤[77才]、に禅僧如満[95才]と李元爽[超高齢]が加わったもの。白楽天以外は年齢は当てにはならぬが、ともかく一番若いのは間違いない。
もちろん、退身隱居、遠離世俗、忘情山水、耽於清淡の境地の方々。
劉心印:「漫道滄桑多変幻 試看常住是香山 清宮絶世珍品:沈香木雕香山九老誕生記」2014年03月14日16:34 人民網-国家人文歴史

場所の香山だが、この詩を引いておけばおわかりだろう。

    「香山寺二絶」  白居易@全唐詩 卷454_45
  空山寂靜老夫閑、伴鳥隨雲往復還。
  家滿瓶書滿架、半移生計入香山。
  愛風岩上攀松蓋、戀月潭邊坐石稜。
  且共雲泉結縁境、他生當作此山僧。


同じ年に開催された会の七位老人の詩が残っている。

    「七老會詩」 胡杲@全唐詩 卷463_1
  閑居同會在三春、大牴愚年最出群。
  霜鬢不嫌杯酒興、白頭仍愛玉爐熏。
  裴回玩柳心猶健、老大看花意卻勤。
  鑿落滿斟判酩酊、香嚢高掛任氤
  搜神得句題紅葉、望景長吟對白雲。
  今日交情何不替、齊年同事聖明君。

    「七老會詩」 吉皎[758-847]@全唐詩 卷463_2
  休官罷任已閑居、林苑園亭興有余。
  對酒最宜花藻發、邀歡不厭柳條初。
  低腰醉舞垂緋袖、撃築謳歌任褐裾。
  寧用管弦來合雜、自親松竹且清虚。
  飛酒到須先酌、賦詠成詩不住書。
  借問商山賢四皓、不知此後更何如。

    「七老會詩」 劉眞@全唐詩 卷463_3
  垂絲今日幸同筵、朱紫居身是大年。
  賞景尚知心未退、吟詩猶覺力完全。
  閑庭飲酒當三月、在席揮毫象七賢。
  山茗煮時秋霧碧、玉杯斟處彩霞鮮。
  臨階花笑如歌妓、傍竹松聲當管弦。
  雖未學窮生死訣、人間豈不是神仙。

    「七老會詩」 鄭据@全唐詩 卷463_4
  東洛幽閑日暮春、邀歡多是白頭賓。
  官班朱紫多相似、年紀高低次第堰B
  聯句毎言松竹意、停杯多説古今人。
  更無外事來心肺、空有清虚入思神。
  醉舞兩回迎勸酒、狂歌一曲會身。
  今朝何事偏情重、同作明時列任臣。

    「七老會詩」 盧貞@全唐詩 卷463_5
  三春已盡洛陽宮、天氣初晴景象中。
  千朶嫩桃迎曉日、萬株垂柳逐和風。
  非論官位皆相似、及至年高亦共同。
  對酒歌聲猶覺妙、玩花詩思豈能窮。
  先時共作三朝貴、今日猶逢七老翁。
  但願常滿酌,煙霞萬裏會應同。
    「七老會詩」 張澤@全唐詩 卷463_6
  幽亭春盡共為歡、印綬居身是大官。
  遁跡豈勞登遠岫、垂絲何必坐谿
  詩聯六韻猶應易、酒飲三杯未覺難。
  毎況襟懷同宴會、共將心事比波瀾。
  風吹野柳垂羅帶、日照庭花落綺


台北故宮博物院によれば、その会はこんな具合に紹介されているそうだ。

  「七老會詩 刑部尚書致仕太原白居易 年七十四」
會昌五年(845)三月二十四日。
胡、吉、劉、鄭、盧、張等六賢皆多壽、余亦次焉。
於東都履道坊敝居合齒之會。
七老相顧既醉且歡、靜而思之此會希有、因各賦七言詩一章以記之、或傳之好事者。
其年夏又有二老、
  年貌絶倫、同歸故郷亦來斯會、續命書姓名年齒、寫其形貌附於圖右。
仍以一絶贈之云:

  雪作鬚眉雲作衣、遼東華表暮慶歸;
  一鶴尤稀有何幸、今逢兩令感當時。


ちなみに、似たようなものだが、九老の絶句は少々違う。この詩の序に、「尚齒之會」という名称が登場する。

    「序」
會昌五年三月、胡、吉、劉、鄭、盧、張等六賢、於東都敝居履道坊合尚齒之會
其年夏、又有二老、年貌絶倫、同歸故郷、亦來斯會。
續命書姓名年齒、寫其形貌、附於圖右、與前七老、題為九老圖、仍以一絶贈之。

    「九老圖詩」  白居易
  雪作鬚眉雲作衣、遼東華表鶴雙歸。
  當時一鶴猶希有、何況今逢兩令威。


日本では「香山九老」より、「竹林七賢」(阮籍,康,山濤,劉伶,阮咸,向秀,王戎@三国時代)が通るが、日本での取り上げ方だと忘情山水だから、どちらも情緒的。両者にたいした違いはなかろう。
(竹に力点がある"聚衆在竹林喝酒"は思想的にかなり違うと思う。[→])

ともあれ、白楽天は日本の貴族に大人気だったから、七老会はすぐに始まったようだ。但し、遠離世俗ではなく、権力者の仲間内での長寿お祝い会的な感じが濃厚。科挙の国ではないから止むを得ないとはいえ。

その最初は、877年だという。南淵年名により小野山荘(現 修学院赤山禅院の地)で開催されたとのこと。[菅原是善:南亜相山荘尚歯会詩序]これが日本における尚歯会(「礼記」祭義)のハシリ。

  昔者、有虞氏貴コ而尚齒、夏後氏貴爵而尚齒、・・・

お供には子供達もお揃いのようで、年老いた親の姿に思わず涙々と詠んだのは33才の秀才官僚。

  「暮春 見南亜相山荘尚歯会」  菅原道真「菅家文草」
  逮従幽荘尚歯筵 宛如洞裏遇群仙
  風光惜得陽月 遊宴追尋白樂天
  ・・・
  毎看吾老誰勝涙 此會當為悩少年

その後、969年に、藤原在衡によって粟田山荘で。

そして、1172年晩春の三月十九日に、藤原清輔が白河の宝荘厳院でとなる。ここで、ついに和歌の集いに変わる。その結果は、「暮春白河尚歯会和歌并序」が残されているので、どういうことか見える訳だ。
  宮内庁書陵部所蔵版

  散る花は 後の春とも 待たれけり
    またも来まじき 我が盛りかも
  藤原清輔69才
  待てしばし 老木の花に こと問はむ
    へにける年は 誰かまされる
  散位 藤原敦頼83才[道因法師]
  年をへて 春のけしきは かはらぬに
    わかみは知らぬ 翁なとそなる
  太常卿 顕広王78才
  ななそちに よつあまるまて みるはなの
    あかぬはとしに さきやますらむ
  前石州別駕 成仲74才
  いとひこし おいこそけふは 嬉しけれ
    いつかはかかる 春にあふへき
  侍郎 藤原永範71才
  むそちあまり すきぬるはるの はなゆゑに
    なほをしまるる わかいのちかな
  右京権大夫 源頼政69才
  年ふりて みさへおほえに しつむみの
    ひとなみなみに たちいつるかな
  散位 大江維光63才

まあ、藤原清輔朝臣の歌としては百人一首の方が知られているだろう。これぞ老境という感じ。
  ながらへば またこのごろや しのばれむ
     憂しと見し世ぞ 今は恋しき


さらに、1182年には賀茂茂重。この辺りから、年賀の集い化したそうだ。

只、それと似て非なる尚歯会の方がもっと有名だとか。蛮社の獄の対象となった遠藤泰通が主催した会。高野長英、小関三英、渡辺崋山、江川英龍、川路聖謨、等が参加。
こちらは、まさしく「竹林七賢」の伝統を踏襲していると言えよう。敬老会的な尚歯会の「七郎会」や「香山九会」ではない。
 (C) 2015 RandDManagement.com