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「我的漢語」
2015年9月30日

「書聖」の話

詩聖/儒教(杜甫)・詩仏/仏教(王維)・詩鬼/異端(李賀)・詩仙/道教(李白)の四大漢詩人の話をしたので、[→] こんどは書。

その場合、太宗/李世民に仕えた初唐の四大家(江南出身)欧陽詢[557-641]、虞世南[558-638]遂良[596-658]、薛稷[649-713]、あるいは、楷書の四大家:欧陽詢[557-641]、顔真卿[709-785]、柳公権[778-865]、趙孟[1254-1322]をあげることになるらしい。浅学の小生には、数名しか馴染みが無いが。

ただ、そのような大家と「書聖」は別扱い。大家を越える位置付けなのだろう。言うまでもなく、王羲之[303-361](山東臨沂籍門閥貴族)である。高校で書道を選択すると、イの一番に覚えさせられる名前だ。小生は書道ではなかったので授業内容は知らぬが、教科書をもらって眺めたことがある。
こんな話をすると怪訝な顔をされるかも知れぬが、どういう訳か、書聖はあるのに、書仏・書鬼・書仙が無い。梵字、アバンギャルドタイプ、幽玄な風景の賛が得意な書道家がいなかった訳でもないと思うが。
下らん話すぎるかも知れぬが、書の世界では、詩聖=詩仙ということ。なにせ、王羲之は道教信仰者だからだ。道士の呪術を重視する帝にとっては、王羲之が書聖でなくては困るのである。その文字に追随しない官僚はパージ。書仏・書鬼は存在してはならぬのだ。

その王羲之だが、体調がすぐれぬ状態が続いていたようである。
そんな手紙がいくつか残っているからだ。
 得示。・・・読んだので、返信ということ。
 知足下猶未佳。耿耿。
 吾亦劣劣。
 明日出乃行。不欲触觸霧故也。
 
遲散・・・散薬が待たれる訳だ。
  [「喪乱帖」@宮内省三の丸尚蔵館蔵]

日本の手紙文も"体調今一歩"報告は少なくない。元気溌剌に人生の愉しさを語るような姿勢は嫌われるので、今一歩の調子でもなんとかやっていますゾと連絡するのが冒頭挨拶の定番。どう見ても、書聖のモノ真似。

王羲之は道教信者だから、おそらく、本当に不調だったのである。健康上頼りにしているのはもっぱら道士なのだから、帝が金丹服用で短命だったのと同じようなものだろう。孫娘の病気にしても、極めて宗教的な感覚で接しているし、道士に任せるしかないとの姿勢が如実に出ている。

  「官奴帖」
官奴小女玉潤、病来十余日、了不令民知。昨来忽發痼、至今轉篤。又苦頭、頭以潰、尚不足憂。痼病少有差者、憂之心、良不可言。頃者,艱疾未之有、良由民為家長、不能克已勤修、訓化上下、多犯科誡、以至于此、民唯歸誠待罪而已。此非復常言常辞,想官奴辞以具、不復多白。上負道コ、下愧先生、夫復何言?

当時の処方の詳細はわからぬが、一種の麻薬的な効用が重視されていたのではなかろうか。王羲之の場合は、寒食散、紫石散等の鉱物薬を神効期待で始終服用していた可能性が高い。それにより、多分、幻覚が生まれ、神仙感覚に浸ることができたのだろう。
それこそが、王羲之の道教信仰の核であり、だからこその書への没入ともいえそう。

二十九日羲之報:月終哀摧傷切、奈何奈何!得昨示、知弟下不斷、昨紫石散未佳、卿先羸甚、羸甚好消息。吾比日極不快、不得眠食、殊頓、勿令合陽、冀當佳、力不一一。王羲之報。
   :
想大小皆佳、知賓猶伏爾、耿耿。想得夏節佳也。念君勞心、賢妹大都轉差、然以故有時嘔食不已、是老年衰疾、更亦非可倉卒。大都轉差為慰、以大近不復服
、當將陟厘也。此藥為益、如君告。
   :
安石定目絶、令人悵然。一爾、恐未卒有
理、期諸處分猶未定、憂懸益深、念君馳情。
   [全晉文 卷二十三〜二十四 王羲之]

おそらく、これは方士処方薬のほんの一部。現代で言えば、完全な薬フェチだったのは間違いないところ。その一例が「天鼠膏」。現代中国でも、相も変わらず犀の角を欲しがる人だらけのようで、その時代からなんら変わっていない。

  「天鼠膏帖」
天鼠、獸名、即孫、亦作“失利”、“失利孫”、又名土豹。野猫的一種。毛皮極貴重、可為裘。“取天鼠熬膏用以治耳聾、應是当時民間偏方。”

そもそも、老子が書いた不老長寿の養生訓「黄庭経」の現存本とは王羲之作なのである。まさに、その思想の持主だからこその作品と言ってよかろう。

尚、白楽天も鉛汞を試したようだから、大流行だったのは間違いない。しかし、仏教徒だったからというのではなく、直観的判断でその後の服用は避けたようである。まとも。

  「同微之贈別郭虚舟師五十韻」  白居易
 我爲江司馬、君爲荊判司。倶當愁悴日、始識虚舟師。
 師年三十餘、白皙好容儀。專心在鉛汞、餘力工琴碁。


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