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「我的漢語」
2016年1月14日

沃沃詩の観賞

詩経-國風を眺めると、中華帝国のインテリ層は、権力闘争好きというか政治思考にどっぷりと浸かった人々からなっていることがよくわかる。

超古代詩を解釈するのにも、政治に関係させないではいられないのである。マ、もともとの編纂理由が政治的なものであるから致し方ないとはいえ、後世までそこを第一に考える必要もないと思うのだが。
ともあれ、詩経テキストの解説は概ね政治的なもの。いかにも無理筋的な記載もあるが、そんなことは全く意に介せずである。官僚養成用教科書ということもあろうが、素人からすれば、唖然とさせられる解説文が多すぎその部分は読む気がしない。

なにせ、詩経のテキスト「序」には以下のような下りがある位だし。
詩者,志之所之也。在心為志,發言為詩。情動於中而形於言,言之不足,故嗟嘆之;嗟嘆之不足,故永歌之;永歌之不足,不知手之舞之、足之蹈之也。情發於聲,聲成文謂之音。・・・
上以風化下,下以風刺上,主文而譎諫,言之者無罪,聞之者足以戒,故曰風。

草摘み歌謡[→]が政治的な上からの「風化」詩とは思えないし、と言って主君の恋愛状況を詠み込んだ「諷刺」詩と解釈する必要など更々無いと思うのだが。
確かに、その時の王の生活状況に問題があり、その歌で諌めたりすることはなきにしもあらずとはいえ。後世になれば、そんな利用方法は自明ではないし、単に、もともと古くからその地域で歌われていた詩のママあるいは若干の言い換えなのだから、そのようなものとして観賞すればよさそうなもの。
政治的解説は、科挙を目指す人達には詩をどう使うかという方法論を学ぶ上で「使えるゾ」ということなのだろうが、頭の構造が狂っているとしか思えない。

歌謡とは心の発露。思いを歌にして、恋する人の心を動かそうとしている訳で、素直にそれを鑑賞するのがベストだろう。それを政治的にどう利用してきたかを覚えるなどおよそ馬鹿げている。

例えば、次の詩をどう解釈するか。
ソリャ、色々である。
はっきり言えば、どうでもよいというか、どうにでもとれるのである。それが民の歌謡というもの。
従って、一専門家の解釈を丸暗記するなど、笑止千万。マ、それが嬉しい人だらけなのが日本の社会の特質ではあるが。

  「隰有萇楚」  詩経-國風-檜
隰有萇楚,猗儺其枝。夭之沃沃,樂子之無知。
隰有萇楚,猗儺其華。夭之沃沃,樂子之無家。
隰有萇楚,猗儺其實。夭之沃沃,樂子之無室。


沢にサルナシあり。
 其の枝は柔わ柔わ。いかにもしなやか。
 伸びたばかりの瑞々しさ。素敵。
 お前さんは、何も知らずに過ごせ、実に楽しそう。
沢にサルナシあり。
 其の花はやわやわ。いかにもしなやか。
 咲いたばかりの瑞々しさ。素敵。
 お前さんは、家を持たずに暮らせて、実に楽しそう。
沢にサルナシあり。
 其の実は軟わ軟わ。いかにもしなやか。
 出来立ての瑞々しさ。素敵。
 お前さんは、伴侶無しで生きれて、実に楽しそう。

小生は「羨ましか」とか、「この世は心労だらけ」といった感覚での歌ではないと見る。
後付というか、恋心の歌を転用するのはいくらでも可能というにすぎない。そのような利用例としての政治的逸話を探してもたいした意義はなかろう。

つまり、この歌は、サルナシ"桃"に、ふと恋心を思い起こさせられたというだけのこと。一寸、覗いて見てしまった幼い人のイメージをサルナシに重ね合わたと考える訳。余り知られていないが、野生のサルナシの花の若々しい香りは桃以上に素晴らしいものがあるという。それなら、惹かれて当然。
いわば光源氏が少女 若紫を見てしまい、そこに恋心を抱く藤壺の面影を感じてしまったようなもの。将来を見越した擬似恋心を感じたのである。
  手に摘みて いつしかも見む 紫の
   ねにかよひける 野辺の若草

これは、脳細胞が狂ってしまったチャイルディッシュ趣味とは違う。ついつい、成長した姿を想像してしまい、魅力を振りまけるような年になったらさぞかし素晴らしかろうと思ってしまったのである。もっとも、現実は厳しく、たいていはそのようには育たないもの。予想とは似て非なる人物に成長することの方が多い。
要するに、もしも将来そうなったら、二人の間に恋が芽生えたら幸せと一瞬感じたにすぎまい。と言うか、かなわぬ恋のお相手の少女時代はこうだったのかナとふと思ったということ。

【註】
沃:幼嫩な様
沃沃:上品で瑞々しい様

枝:枝
華:花
實:果実

家:両家婚姻
室:両人婚姻

隰:低湿地
萇楚:羊桃[芣獼猴桃/キーウィフルーツ]秦峰山脈北側山麓自生

猗儺:しなやかな様


このような恋歌と考える理由は、萇楚にある。よくわからない植物で中国のサルナシ桃とみなされてはいるが確定している訳ではなさそう。しかし、文字から見て、桃夭の婚姻精霊に似た雰囲気を持っていそう。そして、おそらく蔓性。
幼生の桃的蔓草の雰囲気が濃厚ということ。言うまでもないが、蔓とは交わりの象徴である。以下の詩を眺めれば、その感覚がわかるのでは。
可愛いいあの子との逢瀬でもうメロメロ。露で濡れた野辺の蔓草のように。

  「野有蔓草」  詩経-國風-鄭
野有蔓草,零露兮。有美一人,清揚婉兮。
 邂逅相遇,適我願兮。
野有蔓草,零露瀼瀼。有美一人,婉如清揚。
 邂逅相遇,與子偕臧。


どう考えても民謡に似せたインテリの作品だが、流石に、この詩になると、いくら政治的に解釈しようと試みても、同意は得られまい。どうせ、宴会用歌謡である。つまり、男と女のそれぞれの境遇は初めから決まっていない。その場に居合わせた人々に合わせ、お話をつくればよいだけのこと。

もちろん、相思相愛の、遠征の将たる君子がモチーフと見なせそうな詩もある。戦争戦争で暮れる世だったのだからいかにもありえそう。ただ、そのような意図で詠むなら、君子が帰還した喜びではなく、遠くにいる君子に、早く帰って来てほしいと願うスタイルになりそうなもの。
こんな時によく来てくれたネ。来て欲しかったんだ。もう嬉しくて嬉しくて、と解釈するだけで十分と思うが。

  「風雨」  詩経-國風-鄭
風雨淒淒,喈喈。既見君子,云胡不夷。
風雨瀟瀟,鳴膠膠。既見君子,云胡不
風雨如晦,鳴不已。既見君子,云胡不喜。


云胡=怎能(どうして〜することができようか)
夷=安静
癒=治好
喜=歓喜

以下のような解説が付く。そこまで無理しなくとも。
 思君子也。亂世則思君子,不改其度焉。

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