![]() ![]() ■■■ 「說文解字」「爾雅」検討[5c釋宮]■■■ そもそも、コリャなんだ、となってしまうのは、河川を渡る施設についての記述があり、どうしても唐突に映るから。・・・ 隄[唐](=防 塘)謂之梁[水橋] …"embankment[=堤]" 石杠[牀前木]謂之徛[舉脛有渡] …"stone used for crossing river" しかし、よく考えれば、代表的"宮"ははっきりしており、その景観からすれば当然の用語収録とも言えそう。 周文王の豐京@澧河西岸+周武王の鎬京@澧河東岸の宗廟は、前者では城内東、後者では西に位置しており、両者共に澧河沿いの可能性が高い。 築城伊淢 作豐伊匹・・・王公伊濯 維豐之垣・・・ 豐水東注 維禹之績 [「詩經」大雅 文王之什 文王有聲] 秦孝公〜始皇帝の咸陽宮@渭水北岸〜南岸もしかり。 以下の記述も特異なものではなさそう。 無室曰:榭[臺有屋](…高所東屋) 四方而曰:臺[觀 四方而高者](…土築的方形高壇) 陝而修曲曰:樓[重屋] 高台に建造物との設計も、この都では当たり前だったようで。 可以居高明 可以遠眺望 可以升山陵 可以處臺榭 [「禮記 」月令第六 仲夏之月] ともあれ、巨大な城だった訳で、その核になるのが宮室と宗廟だったのだから、その感覚で読み取る必要がありそう。 室有東西廂曰:廟[尊先祖皃](…廟所[宗廟] 廟堂[王宮正殿]) 無東西廂有室曰:寢 (寑 寐 [臥]) 廟とは{供奉屋舍+堂+庭+門}であり、その複合施設{太祖廟-世祖(昭+穆)廟-高考(昭+穆)廟-王考(昭)廟/父考(穆)廟}が城内に建造されていたことになる。 天子七廟 三昭三穆 與大祖之廟而七 諸侯五廟 二昭二穆 與大祖之廟而五 大夫三廟 一昭一穆 與大祖之廟而三 士一廟 庶人祭於寢 [「禮記 」王制第五] 要するに、寢=臥室(宗祖の夢告)、かつ、寢=宗廟(衣冠/封の祖)ということだろう。 ・・・寢廟畢備・・・先薦寢廟 [「禮記 」月令第六 仲春之月] ⏩続 ![]() (C) 2025 RandDManagement.com →HOME |