■■■ 「說文解字」卷一〜巻十四を眺める[道教的]  ■■■
「說文解字」の主張は、≪文字宇宙観を形成する上では、字体について六書を検討する意味はほとんどない。≫というものでは。掲載実例を見れば、そう考えざるを得ないが、経典主義の世界から見れば逆。
しかし、どうあろうと、このコンセプトの役割は絶大。支持が廃れることはなかった。
文字の字義や字音を記憶のなかから呼び起こし、自分で即座に文字を書く必要がある人にとっては、これ以上好都合な文字の覚え方は他に無いからだ。科挙の国では、文字の読み書き能力で人生の行く先が決められてしまうから、ここから抜け出すことなどあり得まい。

言葉とは、意味の抽象化、延伸化、転用、等々、自由自在に変化していくものであって、現時点の状況と近い過去の情報から元義を推定することは感嘆だが、当たっている保証は無い。字体についても同じこと。例えば、音符としていても、実は当初は意符であり、文字を読む人が勝手に読み替える様になった可能性を否定することはできない訳で。
それに、六書のどれに該当するか、意見の割れている文字などいくらでもあるし。
この辺りの事情は、口誦語の世界の住人からすれば、わかってきったこと。そもそも、漢字は1字1固有音というドグマだが、発音は地域地域で全く異なっており、音符での発音の規格統一は、皇帝周辺以外ではできかねる社会なのは百も承知なのだから。

しかし、太安万侶が、それを踏まえて「說文解字」を眺めたとすれば、その論理性には舌を巻いたに違いない。もちろん、細かく見れば、事情によって整合性がつかないところも出てくることになろうが、それは官僚であれば当たり前の忖度で、それは致し方なかろうと。

要するにこういうことがすぐにわかる。
 ┌ 丄系…形而下
一┤   …漢字の大元
 └二系…形而上 (数+十干+十二支)

このうち形而下の文字群の冒頭代表は<王玉玨气士>に映るが、全体を俯瞰すれば、先ずは<示>であり、続くのは<告>であり、<口>。それが<言>と<喜>に繋がる。形而下の文字とは、この様な文字で代表されるのであるから、一種の生命体的情念を感じさせる概念を字義としていると言ってよさそう。
「古事記」的には、だからこそ、<王玉玨气士>の次に、葦が立ち上がる如き形状の<h>が来て、人青草的な<屮艸茻>が続くともいえよう。

この辺りは、儒教と云うより、基層は明らかに道教である。「古事記」序の漢文だけが道教臭で溢れ、本文とは異にするが、太安万侶が漢語の本質は道教的感性にありと考えた可能性を感じさせる。

「說文解字」全体は、五行文字<土金木火水>で大きく分別されているが、そこには道教的観念が組み込まれていそうなのも特筆もの。
<土金>は形而上に属し、<木火水>は形而下。<木>は<屮艸茻>と同様な魂系で、その究極である<人>の後に、その信仰対象である<火水>が位置付けられる。
その<水>系には、もちろん、<雨雲魚𩺰燕龍><虫䖵蟲風它龜黽>といった文字列が含まれているし、<火>系には、<鬼><豕㣇彑豚豸><馬𢊁鹿麤㲋兔萈犬㹜鼠能熊>。
  


卷一【一】
【丄】示三王<玉玨气士>h<屮艸茻>卷二小八半牛
【口】凵吅哭走止{癶步此正是辵彳廴㢟行齒牙足疋}龠冊 卷三㗊舌干𧮫只㕯句 丩十卅
【言】音䇂𠬞𠬜共異舁𦥑䢅爨革鬲䰜爪丮鬥𠂇史支𦘒畫隶殺𠘧皮㼱
<教卜用爻㸚>卷四<𡕥䀠眉盾𪞶皕習羽雈𦫳𥄕羴瞿雔雥𠦒冓幺𢆶叀玄予>
𠬪𣦼≪死≫冎骨肉筋刀刃㓞丯耒卷五角竹箕丌
<左工㠭巫>
甘曰乃丂可兮号亏旨
【喜】壴豆皀食亼入高㐭麥夊桀卷六𣎵卷七日月夕多毌●宀冖巾㡀黹●
卷八人儿●
欠㳄
卷九𦣻須髟長勿豕卷十能熊火炎K囪囟思心惢●
卷十一水龍非卷十二戶耳手女民乁戈戉乚匸匚弓弦系卷十三率虫它卵●
【二】

卷十四金車𨸏厽●
四五六七九
甲乙丙丁戊己庚辛壬癸
子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥●

     

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