■■■ 「說文解字」 卷十四を眺める[3]  ■■■
文字学としての、漢字字体論には3系統ありそう。

このうちの1つが「說文解字」の解釈ということになるが、現代感覚からすれば、極めて政治色が強い上に、説明を過度に省いたテキストなので、字体論としての読み取りは極めて難しい。
要するに、儒教的観点で文字秩序を書き上げた思想書ということ。天子独裁-官僚統治の儒教型政治体制下の官僚である以上、当然の姿勢と云えよう。

その秩序論の根底には、形而上の記号論(☰☷)に恣意的な理屈をつけただけの≪易≫の考え方があり、このテキスト批判が難しい原因ともなっている。お蔭で、唯一無比の文字テキストとしての地位を獲得し、最終的には、権威主義的な頂点に君臨する書に祀り上げられることになったということ。

特に注意すべきは、叙での<古文>が文字の基礎との主張。・・・その様な"文字群"を設定できる証拠は皆無であり、儒教テキストは特別な文字で書かれているというのは、儒教信仰者の想い以上ではなく、反秦朝感情と尚古主義のなせること。しかし、それを否定する者は儒教国の官としては認められないから、表立った批判が登場してくる可能性は限りなく低い。

しかし、反儒教あるいは非儒教の視点から見れば、「說文解字」は、恣意的な教条主義の賜物に映るから、批判はしないものの、異なる字体論を展開する流れは生まれる。
そうした漢字字体論が2つあることになる。

云うまでもないが、表面手字に、一番対立的なのが、甲骨文字を漢字の原初形態と考える立場。呪的な神との対話用の表記こそが漢字の字義・字体を作り上げたとの見方。おそらく、現代になって、ようやく、この見方を受け入れる人も生まれ、という状況だろう。

もう一つは、始皇帝制定文字を原典とするしかないとする、プラグマティックな姿勢で臨むタイプ。秦朝代で、極めて精緻な標準文字体系が構築されたのであるから、その時点における漢字の成り立ちを第一義的に考えるべしとの思想。もともと、六書なる概念も、この時点で確立した筈だと思うが、よくわかっている訳ではない。(「說文解字」の解説も、意義符と御声符から構成されているとの当たり前のことを語っている以上ではなく、そもそも収録文字に対して分類化もできない程度の観念。省略化字体の扱いも語れていない。)

ともあれ、「說文解字」は、字体系列の方針で編纂されていることが一大特徴。にもかかわらず、この系列だけは字形関連性とは無縁。

{[數]巻一巻十三巻十四}─
    {[十干]}─
        {[十二支]}
  


金幵勺几且斤斗矛車𠂤𨸏𨺅厽四宁叕亞五六七九禸嘼甲乙丙丁戊己巴庚辛辡壬癸子了孨𠫓丑寅卯辰巳午未申酉酋戌亥 

  巻一

│   巻十三


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③③③ │
垚堇里 │
│┌───┘
││  巻十四
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①①
金幵
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②②②②②②
勺几斤斗矛車
│ │   │
│   𠂤𨸏𨺅


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𠫓

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