■■■ 「說文解字」 卷十五【叙】 を眺める [3] ■■■
<序が後置である以上、後付け。編纂真意と異なる可能性も。>と記載しているので、誤解を生むかも知れないので補足。

この書が成立した漢籍の≪序≫とは、「史記」の編纂方針から見て、冒頭に来るものではないのでご注意されたい。

太安万侶は、それを知りながら、あえて冒頭に配置している。しかも体裁は一見同様な上に、ガイストは実際の本文とは違っている。あっぱれ。
そうなのである。冒頭の序なくしては、「古事記」は成立し得ないことをよくご存じだったことになる。

どの様な文章が漢籍の典型かと云えば、「史記」太史公自序の如く、篇の最後に配置されていて"・・・作五帝本紀第一"で終わる文章。(正確には篇序と全序の違いがある。)
"・・・"部分の内容としては、
  章建梗概
  執筆目的
  自画自賛
に尽きる。
もちろん、この箇所は修辞法を駆使した四字句で構成される。

当たり前だが、読者は、史書であることを前提にしているのだから、前もってこの箇所を読む必要は無い。
従って、配置を先頭にする必要など無い。それこそ、添付付属が似つかわしい。
<序>の目的とは、帝国に冠たる書を完成させた大業であることを自ら褒め称えること以上ではないからだ。当然ながら、目を通した人に対して誇ることになり、冒頭配置は適しない。
(誇っているといっても、現代日本人感覚だと傲慢と受け取られかねないが、どちらかと云えば謙虚な姿勢の方に近いので、お間違えなきよう。)

しかし、「說文解字」はそうはいかない。目的そのものが自明ではないからだ。
明らかに、辞書ではなく、博物学的な書であり、字体観点での文字体系を通じた一種の思想書なのだから。(もっとも、後世の利用者はもっぱら辞書として利用している。目次が頭になく、巻名も無いから、検索しにくいが。)

これでおわかりだと思うが、「史記」の様な<序>と違って、冒頭に、どういう目的でどの様な方針で編纂しているのか、一筆はどうしても必要な筈である。
中國哲學書電子化計劃 電子圖書館版では巻十五叙が全篇の最初の巻一にされているように、頭に配置してもらわねばこまるのである。どの様な書か知らずに全篇を読むなどおよそ馬鹿げているからだ。

にもかかわらず、<叙>は最後に配置され、その体裁は当時の<序>に倣っている。

ついでながら、一言。・・・本来的には索引提供は目的に反する。
巻十五には、中間部に全部首がまとめて再記されているが、これは<叙>の一部であり、索引や目次ではない。巻毎の部首目録を示すことで、各巻の位置付けをとらえ返し、文字世界の秩序像が得られる様にしてあるだけ。他の書の<序>の章建梗概に当たるとしてもよかろう。
(後世の人々は、これを目次として利用している。)
  

叙 漢 太尉祭酒許愼記 

     

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