■■■ 「說文解字」 卷十五【叙】 を眺める [9] ■■■
巻十五叙の文字発明の記述だが、ほぼ「淮南子」@前2世紀に従っていると見てよさそう。
「說文解字」の著者も注釈書「淮南鴻烈間詁」を執筆している位だから当然かも知れぬが。
(「淮南子」は雑家の書と認定されたので、名目上はothersということになるが、内容的には道家。しかし、儒家・法家・陰陽家の思想をも尊重し、混沌とさせており、経典外書として敬遠されず、定番として残ったのだろう。)
[巻八 本經訓#4]
  昔者
  蒼頡作書 而 天雨粟 鬼夜哭 …書:書契=文字
  伯益作井 而 龍登玄雲 神棲昆侖 …伯益:舜の臣
  能愈多 而 コ愈薄矣
[巻十六 説山訓#11]
  見窾木浮 而 知爲舟
  見飛蓬轉 而 知爲車
  見鳥跡 而 知著書
  以類取之
[巻十九 脩務訓#9]
  昔者
  蒼頡作書
  容成造暦 胡曹爲衣 后稷耕稼 儀狄作酒 奚仲爲車
  此六人者 皆有神明之道 聖智之跡
  故人作一事 而 遺後世 非能一人 而 獨兼有之
[巻二十 泰族訓#9]
  蒼頡之初作書 以辯治百官 領理萬事 愚者得以不忘 智者得以志遠
  至其衰也 爲奸刻僞書 以解有罪 以殺不辜
  湯之初作囿也 以奉宗廟鮮犞之具 簡士卒 習射御 以戒不虞
  及至其衰也 馳騁獵射 以奪民時 疲民之力
  堯之擧禹 契 後稷 皐陶 政ヘ平 奸息 獄訟止 而 衣食足
  賢者勸善 而 不肖者懷其コ
  及至其末 朋黨比周 各推其與 廢公趨私 内外相推擧 奸人在朝
  而 賢者隱處

太安万侶は、文字発明で<天雨粟鬼夜哭>との記述には面白さを感じたに違いない。口誦語一途だった倭人の感覚からすれば、神祇は口から発する音を寿ぐのであって、真意は相対会話でのみ伝わるという見方をしていたと思われるから。文化風土は180度異なることになる。

しかし、ここで注意が必要。
太安万侶は、倭人社会は無文字に徹していたと見ていた訳ではないからだ。おそらく。「說文解字」の文字史を読んで、倭人は超古代から文字を利用していたと確信したと思う。要するに、こういう流れ。・・・
 三皇(伏羲・女媧・神農) …結縄
 五帝(黃帝・顓頊・嚳・堯・舜) …刻木≒書(契)
 夏(禹・桀) …夏代文字[陶紋]
 殷/商 …甲骨
 周  …金文


おわかりだろうか。
直接探査の社会実態調査報告によれば、倭人は、結繩・刻木を利用していた。
  無文字 唯 刻木 結繩[@「隋書」俀国伝]
ココに記載されている刻木とは、夏代文字を用いたと考えるのが自然だろう。勿論、中華帝国官僚は甲骨文字の存在さえ思いもよらない訳で、それより古い夏代文字と気付くことなどあり得ない。
(「古事記」が用いている文字の発音の確定は難しいが、そのうちの渡来模倣≪音≫を、呉音と漢音の2択とするのは、実は間違い。正格には、夏・呉・漢の3択ということになろう。)

【参考になりそうな見方:100%推定】
隋代、倭人のルーツは揚子江の呉楚系(フラグメントな百越勢力)と見られている。それ以上記載されていないが、刻木利用は、越の遠い前身でもある夏王朝にも関係していることが示唆されている。中原v.s.揚子江(三苗)の超古代一大決戦があったとされており、三苗は散り散りになって逃亡。そのなかで中原に取り込まれた勢力もあり、その結果、一気に文字化が進んだと見るとわかり易い。漢字発明とは、帝国官僚が揚子江一円で用いられていた記号を統治の道具として用いることにしたということ。

  

叙 漢 太尉祭酒許愼記 

    

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