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2004.1.7 |
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技術マネジメントに聖域無し…RandDManagement.com 開設は1999年だが、ようやく、「技術マネジメントの話しなのに、何故、無関係な分野でも議論を展開するのか?」という御質問を頂いた。長らく待っていたご質問だったので、ことのほか嬉しい。日本も変わり始めるのではないかとの期待感がよぎる。 といっても、実は、ご質問へのお答えを用意していた訳ではないから、ご回答は、つまらぬ一文で終わってしまった。 「技術マネジメントのスキル向上のためには、その分野の知識を深めるだけでは不十分である。(これは、技術マネジメント分野に限ったことではない。)」 おそらく、こんな説明では、なにがなんだか、さっぱりわかるまい。 そこで、自称右派経済学者のRobert J. Barro著「経済学に聖域無し」の序文に記載されているポイントを紹介することで、説明にかえたいと思う。 (“NOTHING IS SACRED: Economic Ideas for the New Millennium” MIT Press 2002) [中村康明訳「バロー教授の経済学でここまでできる!」東洋経済新報社 2003年] Barro氏はカリフォルニア工科大学物理学科出身だが、経済学へと方向転換したそうだ。数理が不可欠な経済学と、物理学や数学とは近い関係にあるのだから、この分野替えは驚くべきことではない。 (カリフォルニア工科大学には経済学部門は無いが、同じ工科大学でも、マサチューセッツ工科大学には世界のトップレベルを誇る経済学部門がある。) そして、経済学を専攻することになったBarro氏は、経済学をその分野だけに留めておかなかった。社会的問題(宗教、恋愛、犯罪、出産、等)への応用を図ったのである。 「経済学が入り込むべき分野では無い」とされていた聖域で、経済学的議論を積極的に展開したのだ。 (主な寄稿先はWall Street JournalとBusiness Weekである。Business Weekには、1966年〜1984年、Milton Friedman氏も寄稿し続けていた。尚、思想的には好対照なPaul Krugman氏も、New York Timesへ活発な寄稿活動を続けている。・・・政府/機関に頼った思想普及を拒むという点では、皆、共通していると思う。日本のオピニオンリーダーは政府/機関への依存型が多い。) 実務家の立場に立つなら、これは、極く自然な行動だと思う。 経済学の基盤は思想だ。そして、その思想に基づいた強固な理論で社会を変えようと考えるなら、様々な分野への応用を図るのは当然である。 と言うより、その理論の正当性は、馴染みのある問題に関する著述から見えてくるのかもしれない。どのような対象であろうと、思考方法は同じだからである。 要するに、思考方法が重要なら、議論の対象は何でもよいのである。 理屈が重要なのである。 これは経済学に限らない。経営も、技術マネジメントも同じことである。 しかし、これが日本では通用しない。 思想基盤を無視し、ただただ輸入手法を導入するためだ。しかも、思想性皆無で、知恵がない人でも、権威ある組織に属していれば手法解説者としての価値を認めてくれる。お蔭で、日本は、表層的技法の輸入業者だらけだ。 こうなるのは、無思想な、風見鶏型リーダーが跋扈しているからだ。無能なリーダーが地位を守るのに最適な仕組みが保たれていると言えよう。 この風土は、現場が改革に踏み出さない限りは、変わるまい。 例えば、エンジニア/研究者/スタッフ自身が、自ら思想を確立しない限り、表層的な手法学習が繰り返される。(もちろん、この程度で、技術マネジメントのスキル向上が実現できるなら結構な話しだが・・・。) 今のままなら、この状態から一歩も進まない。 しかし、現場が思想性を持てば、状況は一気に変わる。明確な方向を示せる人でなければ、リーダーシップを発揮できなくなるからだ。旧来型リーダーは一掃され、優れたリーダーが登場する。 現場が変わらない限り、新タイプのリーダーは現われようがないのである。 繰り返すが、経済学も、経営も、技術マネジメントも、その根幹は思想である。そして、それに基づいた理論構築が肝なのだ。 従って、技術マネジメント力向上のためには、思想を研ぎ澄ますことが、重要なのだ。遠回りに見えても、結局は近道になる。 思想を研ぎ澄ますことができるなら、議論の対象は何でもよいのである。 「政治経済学」の目次へ>>> トップ頁へ>>> |
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