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■ 分類の考え方 2015.1.21 ■


山羊の想定伝播ルート

山羊の家畜化は難しいともいえるし、易しいとも言える。野生山羊が棲んでいる場所から、管理したくない個体を追い払い、残りを保護すれば形の上では群れができるから、それをどう解釈するかで見方が変わる。
そんなこともあり、遊牧民が山羊を家畜化し、それを農耕民に譲る古代の仕組みがあったと想定されてきた。しかし、農耕民が先に家畜化したと考えるしかないような発掘調査結果が次々と報告されたので、その仮説は通用しなくなってしまった。
このことは、原初家畜化の地域がほぼ固まってきたということでもある。
そうなれば、家畜山羊/Domestic Goatがどのように伝播したかも、おぼろげながらも、推定できることになる。そのなかには、シルクロードに先立つ文化交流路も含まれている訳だから、世界史を考える上で極めて重要だと思われる。
ところが、残念ながら、その辺りの情報が余りに少ない。しかたないので、素人的に、いい加減ではあるが、まとめてみることにした。・・・

原初家畜化は、乾燥地域ではあるが、雪解け水が得られる、肥沃な三日月弧地域とされる。後背地は山岳部になるから、野生の山羊が沢山棲んでいた筈で、それは現存する2野生種と見てよさそう。

三日月弧西部地域では、現在カフカスでよく見られる野生種が家畜化したとみられる。この野生種は、クレタ島にも現存するようだ。
 [野生種]パサン/Pasang or Wild goat
   角は後方に湾曲している。
   節状の形状。
  類縁としては、
   ・[野生種]カフカスアイベックス/West Caucasian tur
   ・[野生種]カフカスタール/East Caucasian tur
  カフカスだけが昔のママということか。
Wild goatと呼ばれているが、妥当である。レヴァントの農耕古代遺跡から家畜型の骨が発掘されるからだ。

一方、三日月弧東部地域では、アフガン周辺の高地(ヒンズークシ山脈/カシミール西部,カシミール東部,スライマン山脈,カイバー峠)に現存する野生種が家畜化していた可能性が高い。
 [野生種]マーコール/Markhor
   角は直上に伸び、中途で横方向に曲がる。
   コルク栓抜きのスクリュー状の形状。
こちらは、パサン系が出土する遺跡ほどの古さはないようだが、シュメールを始めとするメソポタミア文明発掘品の絵に必ず登場してくる山羊である。角の形がまるっきり違うので一目でわかる。

ちなみに、野生山羊は、北アフリカにも1種。
 [野生種]アイベックス/Ibex
  ・角はパサン類似。節間隔は一定になり、狭い。
こちらは、伝播してきた家畜山羊と交配した可能性は高いが、アイベックス自体の家畜化はなかった模様。

さて、先ずは、【西欧】への家畜山羊の古代の伝播ルートを考えてみよう。もちろんパサン型山羊である。
クレタ島に野生山羊が残っているから、レバノン辺りの港からキプロス島に渡って、さらに多島海のクレタ到達だろう。地中海海上交通路が文化交流の幹線だったことがわかる。
クレタからギリシアに入り、バルカン半島だが、この地は陸路交流は盛んでないからその先は考えにくい。
一方、【地中海ルート】はクレタ-シチリア-コルシカ-イベリア半島と繋がっていておかしくない。
シチリアに入れば、イタリアに伝わり、ポー側上流へと伝播間違いなしだろうし、コルシカに入れば、ローヌ川上流に伝播ということになろう。もともと山羊は高地性動物なのでアルプス山岳地域(スイス)に適合し易い訳で、そこでは、もともとは白色毛用に特化した「ザーネン/Saanen」種や、その類縁と思われる斑色の乳用種「アルパイン/Aipine」、おそらく耐病性向上で開発されたのだと思うが、乳用特化の褐色「トッゲンブルグ/Toggenburg」種として結実する。毛用は、おそらく高価なモヘア(アンゴラ品)を目標にして開発されたものだろう。

東欧】だが、これはバルカン半島経由ではなく、シリア-トルコ-ドナウ川路線になろう。
トルコではアンカラ付近の乾燥した高山地帯に適応した、絹並の見栄えする白色長毛がとれる「アンゴラ/Angora goat」種へと進んだ訳である。

レヴァントから西と北は上記だが、南もある筈。
パレスチナからエジプト、さらに【北アフリカ】全域という流れ。
ベルベル人と山羊が一緒に動いた可能性がありそう。野生のアイベックスとの混血が進んでいてもおかしくない。しかし、ここらの需要を考えると、もっぱら肉用種だろう。ただ、小型化した「ピグミーゴート/Pygmy goat」は"北"アフリカかはなんとも。現代ではペット用でしかなく、もともとの食用家畜の風合いは消されてわからなくなっているかも。
源種はナイル川上流高地産とおぼしき「ヌビアン/Nubian(現存家畜は英国改良種Anglo-Nubian)は、耳垂れであり、印度から海伝いにアビシニアへと入って来たのかも。コーヒー発見は、山羊が食べたからとの当てにならぬ話があるが、この地域に昔はかなりの数が棲んでいたのは間違いなさそう。
しかし、耳垂れタイプで有名なのは、南アフリカ産「ボーア/Boer」である。エチオピアか印度からわざわざ持ち込んだのだろうか。そうでなければ、アフリカに野生種がいたということかも。

さて、三日月弧東部地域からの伝播だが、チグリス・ユーフラテス両河川域には全面的にマーコール型山羊が飼われたようである。もともと、山岳乾燥冷涼地帯の生態の動物で、樹木の芽を食べるのだが、乾燥温暖地域の灌漑耕作地域周辺での葉食に適応させられたのだろう。その適応力では、パサンより優れていたのかも。

乾燥地域とはいうものの、デルタ地域でも飼育可能だから、【ペルシア-アフガンルート】で東方にすぐに家畜山羊が伝わった筈である。
当時のアフガンには、パサン型家畜もマーコール型家畜もいたことになる。さらに、山岳部には野生のマーコールいたのだから、かなりの混血種が生まれた筈である。しかし、結局のところ環境に合う種が、ここで選択されて伝播していったのだと思う。

おそらく、伝播という点では、【シンド】辺りが早かったのでは。
最近のインダス河発掘結果からすると、かなり広域に都市国家らしき農耕拠点があったようだから。このことは、アフガン-(カイバル)-パンジャブ(-カシミール)-シンド(-バローチスタン:ペルシア西端)という文化交流圏があったと考えるべきだろう。そうなると、シンド辺りに野生種が残っていてもおかしくないのだが。
さらに、ここから【印度亜大陸】の高原地域に入った筈である。
ここでは、山羊は肉食用途ではなく、もっぱら乳用である。耳が垂れている犬のような姿へと変わった「ジャムナパリ」種が登場した訳である。しかし、信仰上肉用にしたい地域もある訳で、東部のベンガル辺りだと黒色の肉用種「ブラック・ベンガル/Black Bengal」が主流となる。余り小型化していないから、短出産周期なのだろう。ヒンドゥー教は生贄があった筈で、おそらく山羊だろう。

アフガンからはシンド方向だけでなく、チベットやゴビ沙漠-中原へと向かうルートもある。
チベット】は高山地帯であり、もっぱら毛用途とされた訳で、家畜種の「カシミヤ/Cashmere goats」が生まれることになる。毛色は多様だが、防寒という点では垂涎モノの毛質だから、適地のほとんどに移入されたに違いない。おそらく、品種的に多様化している筈である。
後者は食の帝国域だから、ベンガル同様に食肉種となる。
中國は夏商時代にすでに文字上では記載があるから、歴史があるし、気候が違う地域だらけだから、作出品種の数は半端なものではなかろう。しかし、現代の畜産業的には海外の家畜品種が主流とならざるを得まい。【内蒙古】の「内蒙古白絨山羊」や【太行山】辺りの「修武K山羊」が残存家畜種か。

その先どうやらビルマに到達したにすぎないようだ。乾燥山岳地帯適応型の動物だから、モンスーン気候濃厚な地には流石に難しかったのだろう。
インドシナ半島へはチベット高地から雲南/ビルマ・ラオス高地へのルートで入ったとみるべきだろう。しかし、熱帯モンスーン地帯を経て島嶼部へ伝播するのは難しい訳で、マレー半島、インドネシアからフィリピンまでの【東南アジア島嶼部】には、南インドから海路で伝わったようである。それが、「カンビン・カチャン[マレー/インドネシア/タガログの豆山羊]/Kambing Katjang」。もちろん、小型の肉用種。色は褐色。
これが島嶼を北へ進み、【台湾】に至ると「台灣褐色山羊/Formosan brown goat」。大陸からの持ち込み種は少々大き目の「台灣K山羊/Taiwan black goat」で見た目でも全く異なる。もちろん、両方ともに肉用種のママ。
島嶼の褐色も大陸の黒色ももとは同じとされているようだが、どうかネ。黒色はカンビン・カチャンではなく、チベットから雲貴高原-ベトナム山地に向かった種という可能性もあるのでは。ベトナムは山羊の国だからだ。ご存知のように、十二支で山羊が選ばれている位だ。それが伝播したのが台灣K山羊であり、さらに海路で【済州島経由朝鮮半島】に行き着いたのが、「黒山羊」と見る。
もちろん、【沖縄】の「島山羊」も黒だろう。
ちなみに、東南アジア島嶼タイプのカンビン・カチャン系は【トカラ列島】の「喇山羊」。淡褐や白色だが、必ず褐色斑がある。上野や多摩にもいるのでお馴染みになってきた。確かさのほどはわからないが、15世紀に渡来したとされているようだ。屋久島や鹿児島でも飼われたに違いないが、すでに残っていないようである。

日本本土】の場合、家畜は、肉も乳が食禁忌だから、山羊の魅力は薄かった上に、樹木の芽を喰う動物は害獣扱いになるので、渡来しても、増やす気はさらさらなかったようである。
従って、家畜として扱われたのは、寛永のペリー提督の渡来以降のようだ。滞在米人のための乳用山羊が必要となった訳だ。もっとも、正確には、それ以前にもキリスト教布教の宣教師が持ち込んだのは間違いない。おそらく肉用である。禁教になり、消滅した筈だが、隠れキリシタン地域には残っていておかしくない。それが、五島列島に残存していた白色肉用種「柴山羊」ではないか。
その後、文明開化ということで、明治政府奨励による山羊乳生産でザーネン種が移入され、雑種化したとされている。他の種も入り、第二次世界大戦直後は山羊飼育全盛だったそうである。今は昔である。


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