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2006年6月6日
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動物の系統「学」を考える…

 生物学には、分析型と比較型の2つの系統があるそうだ。(1)

 系統の研究をちらっと覗いただけでも、このことはよくわかる。DNAの細かな分析ばかり行っている人もいれば、ポイントをついた新しい見方を提起する人もいる。

 特に、DNAのデータを用いた統計手法は大流行である。しかし、素人でも想像がつくが、結果は様々。
 当たり前である。統計手法や、データの取り方を変えれば、違った結果がでる。これが、新しい発見ということで喧伝されたりする。
 ここでの問題は、喧伝ではない。どうしてそんな方法を採用したか、その思想がさっぱりわからない点にある。これで、どうやって議論するつもりなのか理解に苦しむ。こんな論文を大量生産して、どんな意味があるのだろう。

 この状況を知りながら、突破する気概がある人は少ないようだ。
 しかし、少数だが、新しい考え方を提起する人もいる。(2)
 こうした取り組みが、学問の本流になって欲しいものである。

 と言う事で、分析型と比較型の話を、勝手に改筆してみよう。

 分析型とは、今ある無知を克服することに全力を注ぐタイプを指す。一つの問題を克服すると、また新しい無知に直面する。そこで、次ぎなる解答を求めることになり、学問は限りなく発展し続ける。成果物は情報として残され、次への発展の土台となる訳だ。効率的に無知への解答を生み出す学問体系ということになる。

 一方、比較型は使命が全く違う。その目的は、解答を出すことではなく、「無知を創る」ことなのだ。究極的には、進化史に立ち向かうつもりだから、客観的解答など出しようがないのである。従って、ともすれば、無駄な時間を潰す学問に見える。しかし、狭い領域に閉じこもっている学問ではない。自然科学でありながら、人文科学や社会科学も必要と見れば、躊躇せず踏み込んでいくのだ。

 すぐに想像がつくと思うが、日本は「分析」偏重である。

 言うまでもないが、「分析」でイノベーションは生まれない。新しい知を生むと言っても、データを追加するような作業に近い。無駄なことではないが、時代を切り拓こうと考えるなら、そんなことばかりに力を注いでいたのでは、進歩の流れから取り残されると思う。
 但し、膨大なデータが集まったりすると、見えなかったものが見えてくることもある。量から質への知の転換はあり得る。従って、効率的に膨大なデータを集める手段が見つかった場合と、新しい整理方法が見つかった場合は、例外だろう。

 それにしても、日本の研究者は、どうして思想性を打ち出すことを嫌うのだろう。

 新しい考え方を生み出すことにこそ喜びがあると思うのだが。
 職を与えてくれた先生の思想を崩すと、生活基盤が揺らぐからなのかと邪推してしまう。

 ちなみに、いくつかの教科書を眺めて、動物分類をまとめてみた。
  → 「動物の分類」 分類とはいかなる思想なのか一寸知りたくなって、・・・

 まだよくわからないことが多く、様々な意見があり、これが定説というところまで到達していないようである。テキストを見ると、古い説を大事にしている人もいるようだが、これから先、ちょくちょく書き換えられることになりそうである。

 学問は進歩するのだから、当然のことだ。

 そのなかで、聞く人をうならせる素晴らしい仮説が時々登場する。
 これこそが、学問の楽しさだろう。そして、こうした仮説を作りあげた考え方が、他の分野での新しい考え方を引き出すきっかけになることが多い。

 どうしてそんなことになるかと言えば、仮説とは、ものの見方そのものだからである。
 新しい見方が、様々な分野で、次の大きな進歩を引き出すのである。

 --- 参照 ---
(1) http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/1997Archaeology/04/40900.html
(2) SINE法 http://www.evolution.bio.titech.ac.jp/f_keywords/p01_sinemethod.html


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