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節足動物
  
■■■ 2018年1月4日 ■■■

節足動物甲殻類を眺めている理由 …

素人が、生物分類をわざわざ素人的に眺めているから、えらく奇異に感じられることだろう。
当たり前だが、普通はこんな作業が面白い筈がない。分類は専門家にまかせるしかなく、素人は結果を暗記するだけだからだ。そんな分野に手を出すのはマニアのみ。

しかし、今だけは一寸違う。

分類が大いに揺らいでいるからだ。仕訳がガラガラポン状態の領域もあるし、それもあって分類名称が大混乱していたり、階層構造もテンヤワンヤな箇所も少なくない。分類名称も、以前のそれなりに感覚的につかみやすいものは激減し、部外者には理解しにくい名称や、整理の都合で決めた代表種をあてたりという状況。
・・・もちろんこれは部外者感覚での話。その世界にいる方々は、それぞれ頭が整理されているから、どうということもないのであろう。

だが、こんなチャンスは滅多になかろう。
素人が、ザックリと分類された全体像を眺めると、その進化のシナリオを語れるからだ。専門家の分析結果の総合化されたものを眺めて、インプリケーションをつけているようなもの。
こんなことができることがわかったのは、「動物の主流」の大まかな系譜がわかってきたから。
  後方鞭毛細胞発祥>左右相称体形>脱皮型カテゴリー>節足動物>甲殻類>昆虫
脱皮が分類のメルクマール。そして、多足類ではなく甲殻類から昆虫が生まれたとされる。やはり、と思った人も少なくなかろう。
脊椎動物では、"恐竜>鳥"が大ウケ。こちらも、やはり、では。口にはださぬだけで。
そんな人だと、骨の穴分類の問題性指摘には拍手喝采である。骨はそう簡単に進化できないから、ココを見よというだけで、とても理屈とは思えない説明で亀の位置が決まっていたからである。

つまり、概念は曖昧のままで、シナリオも欠いているにもかかわらず、"モノの見方"だけ強制するような状況が成り立たなくなってきたということ。
ようやくにして「精神の解放」が始まった訳で、直観力をベースとした創造性が光ってくる時代が到来しつつあるということ。
その切欠は、もちろん、"ホックス遺伝子"研究。これによって、体節という連鎖構造と、肢の変異という二本立てのボディプランが明瞭に示されてしまったからである。これによって、どうしてそのような進化が始まったか"想像"できるようになったのである。もちろん、ここからは"総合的判断"で纏められた現生動物群の生態状況から、直観力に頼ってシナリオを案出するしかない。分析して多変量解析という世界ではない訳だが、こここそが肝であり、そのために分析的に検討を重ねていると言ってもよかろう。
ところが、ココが大問題。
シナリオを思いつくのは本来なら現実の生物群の生態特徴を日々観察している専門学者が適任である。と言うか、それ以外の人々だと、ナンダカネになりかねないと考えるのが普通。
しかし、現実にはそうは進まない可能性の方が高そう。各研究者の対象領域はあまりにも狭く、というか狭くしないと力を磨くことができないから成果が出せない訳で、分野外も含めて俯瞰的に眺めて考えるような頭の使い方をしている筈がないのだ。(マ、だからこそリベラルアートにも関心を振り向ける必要があるが、それで"誰でも"の創造性が喚起される確証がある訳ではない。)

なんといっても厄介なのは、鍛えられた様々な視点から、その特徴の"有無"を分析検討するのが分類学のようだから、優秀であればあるほど分析思考に卓越しまう訳で、それは下手をすれば、創造力の原動力たる概念思考から遠ざかってしまうことを意味しかねない。
それはともかく、節足動物の方に話題を戻そう。
こちらで、驚かされたのは、蜘蛛と昆虫のボディプランの違いがわかってきた点。
もちろん、義務教育で暗記させられるので、誰でもが脚が8本と6本の違いと知っている。しかし、それ以上ではないから、質問したりして嫌がられた記憶をお持ちの方もおられよう。それが、ようやくにして、事態が明らかになってきたのである。
昆虫の歩行用である胸脚は確かに3対だが、蜘蛛は4対ではなく1対のみ。残り3対は口器の頭脚。
一方、昆虫の翅だが、胸脚に分岐している鰓脚が相当と。鰓呼吸を諦め、陸上呼吸能力を獲得して可能になった訳である。。魚が肺呼吸を身に着けて陸に上がってきたから、それとの競争だったか。…肺呼吸での海棲は可能だが、鰓を棄てた昆虫が海に戻ろうとしても容易ならざる困難に直面するナのは当然であろう。

(ちなみに、車海老は"根鰓"である点が特徴で、ロブスターなどとは違う。葉鰓や毛鰓だったりするのである。)
要するに、蜘蛛とは、餌を獲っ捕まえて口に運ぶことに全力投球している種族と見ることができよう。ソリャ、完璧を目指すなら、麻酔も用意したくなるわ。誰でもが予想した通り、極めて攻撃的な種族が出自なのであろう。

多分、昆虫はこの逆。
眼力と俊敏な対応力で、早目早目に危険を察知してすかさず逃げることに専念しているように見える。
よく言われてきるように、恐ろしい敵だらけの海から、敵がいそうにない新天地たる陸上に進出した一族なのだろう。
雨季の水溜りに一時的に棲息するだけの種など、いかにもそんな一族の類縁臭紛々。
眼力+脚の移動力で制覇しようと思ったが、運動能力では脊椎骨格で流線形を実現した魚類に分があり、防衛能力では甲殻の貝類的軟体動物が優位だったので、その狭間で生き抜くのは大変だったのであろう。

そう考えると、甲殻類の主流派は、どう見ても、急成長大量増殖で生きようという微小な部類。
 様々な工夫が図られ、種も雑多とならざるを得ない。
 どうせ食われるなら、
 それより多く増殖させようというのが基本姿勢だろう。
 捕獲者の目から逃れるための努力も。
 苦労して、目立たぬように図るしかないから、
 躯体の透明化を、職人芸的に究極まで詰めた種もあろう。
 餌に合わせ、口器設計も変わり、脚も変わってくるが
  鰓機能と目立たぬ目の設計が重視された筈。


一方、それが面白くない連中もいる訳で、喰われるなら、いっそのこと寄生してやろうと一大転身。
 寄生相手に合わせた多様化が進むことになる。
 もっとも、すかさずクリーニング業者も登場してくる。
 そうは問屋が卸さない訳だ。
 しかし、寄生派が一大勢力をなしているのは間違いない。
 生殖を考えると、生活ノウハウは半端ではなさそう。
 おそらく、お気楽寄生生活ではないのである。


少数派ではあるが、そのどちらも面白くないタイプも存在する。共生追求である。
 強者のクリーニング業者として登場したのでは。
 太鼓持ちなら喰われまいということで。
 そのうち、弱者の警備員となる種も。
 そこらじゅうで紐帯締結のチャンスを探し回った筈。
 目論みが当たれば能天気な生涯かも。


我々が目にする蝦蟹の類はどうもこうした流れから外れた傍流臭い。
夫々ニッチ的な環境を見つけ、隠れながら生き抜いている種かも。とてもそうとは思えないが、海は広い。

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