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2003.9.22 |
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日本酒の没落…日本酒の国内市場は縮小一途である。国税庁の統計によれば、清酒販売は1992年の137万klから落ち込みが続き、2000年には100万klを切った。健康志向の高まりで、比較的高アルコールな清酒離れが進んだ、というのが大方の見方である。 これほど低迷が続くにもかかわらず、業界には、未だに日本酒再興可能という声が消えない。高級、高品質のイメージがあるから、その力を生かせばよい、との意見をよく聞く。なかには、輸出ポテンシャルを指摘する人もいる。 といっても、このようなアドバイスなど受ける前から、業界は、このような考え方で動いてきたのである。 実際、店屋を覗けば、美しいデザインの瓶や箱が目立つ場所を占めているし、高額な様々な吟醸酒や、新鮮そうな生酒が数多く並ぶ。 この状況を見ていると、ワイン同様に、様々なブランドの高級商品市場が形成されているように見える。 しかし、本当にそうだろうか。 というのは、日本酒はワインとは逆の道を歩んでいるからだ。 例えば、日本酒の高級品といえば、山田錦が原料だ。精米度合いも極めて高い。このことで、雑味は消える。日本流に言えば、上品な味の実現だ。これが杜氏の考える最高の技術と、最良の酒である。 こうした酒は冷酒が原則だ。温度が低いから、飲んでも、特徴はすぐにわからない。しかし、じっくり賞味すれば、ほのかで上品な香りがわかる。これが愉しみなのだ。このような酒を燗で飲むと、なんの差も感じない。 上品といえば、聞こえはよいが、要は、特徴ある香りが「極めて少ない」商品である。 換言すれば、特徴が弱いことが「ウリ」の商品なのだ。 一般に、このような特徴の薄い商品は、コモディティ向きだ。 雑味が無い、とは「さっぱりしている」ということに他ならない。飲み易いのである。 本来は、廉価なナショナルブランド向き、といえる。 コモディティ向き商品に対して、技術の粋を尽くし、微妙な差で競争しているのが高級日本酒である。(この考え方は、ワインとは全く逆である。原材料に由来する味や香りが感じられ、全体のバランスが優れているものが高級品だ。) 杜氏の伝統技術観に拘泥しているといえよう。 このため、新しい菌を活用したり、人工環境の生産設備への転換を図っても、伝統技術の補強に終わる。「新」技術を導入すればするほど、微妙な差の競争になる。しかも、何処でも作れる体制を敷くのだから、地酒の魅力は益々薄れる。 成功が難しい路線を追求していることになる。 ・・・プレミアム商品を狙わず、同じコンセプトをコモディティ商品に使えば、大市場構築もありえたのではないだろうか。 例えば、雑味をとりたいのなら、過発酵を抑制し、濾過/精製過程を加えることでも実現できる。その後、糖分量とアルコール濃度に応じて、安価な醸造アルコールと水をブレンドし、味を調整すれば、「さっぱり、すっきり」した商品ができあがったと思う。 しかし、高級品市場を潰しかねないから、このような製品/市場開発には注力しなかったのだ。 これとは別の道もあり得る。 原酒は20度だから、水割りで美味しい酒を開発する方策もあった筈だ。本来、2週間でも酒はできる。安価な濃厚酒は難しい商品ではない。飲み易ければ、ヒットの可能性は高かったのではないだろうか。 (もともと、14度の日本酒とは水割り品である。) 日本酒に飛躍のチャンスはあったが、伝統の価値観を重視したため、挑戦を回避したと言えよう。 若者の日本酒離れは当然の結果だ。 「食」の目次へ>>> トップ頁へ>>> |
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