↑ トップ頁へ

2005.10.19
 
 


お茶の歴史をふり返る…

 お茶の歴史についての本は余りに多いため、目を通すだけでも大変だ。

 しかも、大同小異のお茶の種類の解説に力を注いでいる本が多い。それでも、美しい写真が満載されていると愉しいが、知的な歓びは感じないから、すぐに飽きてしまう。

 とはいえ、ポイントをおさえた解説サイトもある。歴史的事実や茶文化の現況は、こうした記述を、ざっと眺めるだけで、結構わかる。(1)

 ただ、素人には、一寸不満が残る。個々の知識は得られるが、全体の大きな流れがよくわからないのである。

 ざっと眺めた感じからいえば、こういうことだろうか。生半可な知識で適当に構成してみた。

 茶の起源は中国。
 国土は広いが、中国内での実質的産地は思ったより狭く、湖南・湖北/浙江辺りが中心で、あとは四川の一部の適地といったところか。

 今でも、この地域では「緑茶」を好んでいるようだ。
 香りと、覚醒を愉しむなら新鮮なほど良いからだろう。中国では発酵茶が主流と主張する人がいるが、おそらく間違いだ。今後も、緑茶が主流から外れることは無いと思う。

 茶の魅力は、中国から世界に広がったが、まずは中国大陸の北方に伝わったようである。もちろん、北方では茶は栽培できない。そこで運ぶことになるが、北方の大都市は余りに遠い。しかも寒い。お茶は乾燥してしまう。
 それに伴って、香りがとぶ。その結果、北部地域では、着香した「花茶」が好まれることになる。北京では今でも、ジャスミン茶がよく飲まれるのは、この流れと言えよう。

 遠距離の蒙古へは、さらに持ちがよい形態が必要になる。「黒茶(乳酸菌による後発酵)」へと進む。塊化したものは「磚茶(團)」と呼ばれる。
 その先、インドやパキスタン方面にまで伝わっていくと、さらに本格的な発酵が進むことになろう。この辺りまでくると、砂糖や塩と一緒に飲むようになる。飲み易いように、ミルクとの混合が基本となる。ミルクがなければ、香辛料(マサラ)が入る。

 こうした“茶”の伝来ルートでは、広東語音の“cha”、“chai”が通用している。“tea”とは系譜が違う。

 ちなみに、日本へは茶の木が伝わってきた。当然ながら、香りが愉しめる、新鮮な茶が好まれる。焙じ茶や、玄米茶は、系譜が違うような感じがする。

 と言うのは、お隣の韓国では、一般家庭に茶の習慣は無いからだ。ここでは、お茶という名前がついていても、薬効モノか、香ばしい香りを愉しむ類のものばかりだ。後者は、「おこげスープ[スンニョン]」の系譜を踏む穀茶(コーン、麦、はとむぎ)のことである。香ばしさを愉しむといっても、日本とは違い、茶葉が全く入っていない。
 よく知られているように、李朝時代の排仏祟儒政策以降は、茶を飲む習慣は消し去られたからである。現在でも、「伝統」といえば、李朝の習慣を指すらしいから、奇妙なナショナリズムである。今後も、それ以前の新羅や高麗文化を顧みることはなかろう。

 こうした、“cha”の広がりとは異なるのが、発酵茶である紅茶の流れである。
 発酵茶といえば、たいていは茶の分類が詳しく解説されているが、歴史的な記述が無いのでつまらないし、どうなっているのかわかりづらい。
 しかし、常識を働かせれば、簡単な話である。

 北方へ伝わって行った茶は、乾燥の方向に進んだが、南方はそうはいかない。暑くて湿度が高い地域だからである。当然ながら、発酵は避けられない。
 とはいえ、あくまでも、鮮度は欲しい。そこで、できる限り完全発酵でない茶が好まれる。
 つまり、海外に出る華僑系は完全発酵の「紅茶」ではなく、半発酵の「青茶(烏龍茶)」を飲むことになる。しかし、華僑圏から外れると、「黒茶(後発酵、例えばプーアル茶)」や「白茶(微発酵)」が選ばれるようだ。
 こんなところではないか。

 とはいえ、中国で完全発酵茶「紅茶」が作られた。
 その結果、有名になったのが、安徽省南部産の「祁門」。こちらは陸路ではなく、中国から海路で輸出された。高温多湿な南海を経由して欧州方面に運搬するつもりなら、紅茶しかあるまい。
 こうして欧州に紅茶が伝わり、人気を博したのだ。

 繰り返すが、紅茶は新鮮感を欠くから、中国国内で人気がでることなど無かろう。もっぱら海外商品だと思う。

 その後、紅茶を求める声に応えて、インド・ヒマラヤ地帯の「ダージリン」や、セイロン[スリランカ]の「ウバ」といった名品が生まれる。栽培範囲も急速に拡大し、インド北東の「アッサム」、「ドアーズ」や南部の「ニルギリ」、セイロンでも「ディンブラ」、「ヌワラエリア」、さらにジャワやケニアも一大産地となる。
 インド、パキスタンは、陸路の茶文化が伝わった後で、英国経由の海路からの紅茶文化が入り、両者が重なり合っていると思われる。

 こうした海路系統の“茶”が、福建語音の“te”、“tea”なのである。

 こうして見てみると、結局のところ、茶の文化を育てているのは、日本、欧州、インド/パキスタンではないかと思われる。

 中国を入れなかったのは、毛沢東時代に、茶文化の伝統を破壊したからである。李朝朝鮮とたいして変わらない。

 演奏・演劇の場を兼ねた「茶館」を、反労働者・反農民的な知識人の集うサロンと見なし、一気に潰したのである。一方、職場では、思想を学ぶ茶話会は推奨された。そして、「茶館」は、安茶を出す食堂に変わってしまった。
 もっとも、ケ小平政権下では、外貨を稼ぐ観光の場として復活した。といっても、外見だけで、昔のような役割は消えてしまった感じである。
 今、中国本土の若者や知識層が行くのは、もっぱらコーヒーショップと言われている。

 --- 参照 ---
(1) 代表的なサイト http://www.o-cha.net/japan/teacha/index_j.asp?genre=8


 「食」の目次へ>>>     トップ頁へ>>>
 
    (C) 1999-2005 RandDManagement.com