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「新風土論」
2015年3月7日

沙漠もイロイロ

一神教と沙漠の風土が産んだ思想と見るのは考えものという話をした。 [→]

その続きとして、一神教を生んだ砂漠とはどんなところかみておこう。地理的感覚を得るため、先ずは地名確認から。・・・

ユダヤ人の約束の地は、エジプトの川とユーフラテス川の間の部族名(ケニ,ケニジ,カドモニ,ヘテ,ペリジ,レパイム,アモリ,カナン,ギルガシ,エブス。[創世記15:18-21])で現されている。「黒-アナトリア半島/ヒッタイト/トルコ-地中-エジプト-紅-アラビア半島-ペルシア-メソポタミア」に囲まれたレバントの南半分を指すのだろう。ほぼ現在のイスラエルの支配地と同じとみておこうか。・・・
 【北】ダンの丘 ナザレ (川の対岸:ゴラン高原)
 【東】ヨルダン[メロム/フラ湖-ガリラヤ湖]〜死
 【中央】ラムラ エルサレム
 【西】地中[ハイファ港-テルアビブ港]
 【南】ベエルシェバ ネゲヴ砂漠

イエスと12使徒はユダヤ人だろうから、キリスト教の出自を沙漠の思想と見なすなら、それはネゲヴという特定の地域に根差すものとも言えよう。その辺り発祥で現在も沙漠的気候帯で生活している民族は、ベドウィンとベルベル(北アフリカ)である。正真正銘のノマド(遊牧民)であり、小部族主義者そのもの。小生には、その生活スタイルが一神教に結びつくとは思えないが。
ただ、「禁欲的」であるのは間違いない。資源が少ない地域だから、節度をわきまえずに消費すれば自滅するのは当たり前。当然の姿勢である。それが辛いというのは都会人の感覚であるかも。沙漠的環境での生活者から見れば、都会は薄汚れており、衛生上問題多き地で、悩ましそうに映かも知れないのである。
日本人なら、都会人種は、里山や田圃の風景を眺めることで心が和む。その感覚ををレバントに持ち込めるとは限るまい。あちらの都会人種は、沙漠に行くと平穏な気持ちになるのかも。たまには、都会を離れたくなるという点では両者共通するが、行く先の好みは異なるかも。
オアシスにしても、有難さはあるだろうが、それは立ち寄り先だったり、出立準備のための地でしかなかろう。沙漠とその周囲の乾燥地帯を生活基盤としている人達にとっては、オアシスとは人工的な小集落以上ではないかも。おそらく、格別好みな場所という訳ではなかろう。
レバントの都会人にしても、ノマド出自意識がありそうだから、たとえ緑の濃い林があっても、燃料採取の場というイメージに映るのでは。日本的な感興がおきるとは限るまい。

それはそれとして、一神教という観点で考えれば、確かに沙漠の意味は小さなものではなさそうである。モーゼの出エジプトこそ、ユダヤ教の核心的部分だからだ。砂漠地域での苦闘なしでは語りえまい。ネゲヴ沙漠とは違うのである。・・・シナイ半島砂漠[地中海-スエズ湾-紅海-アカバ湾 砂漠〜南部の山地]-ナイル川東部沙漠@エジプト

一方、ムハンマドはアラビア半島西部の都市で教団を立ち上げた訳だが、この地は砂漠だらけである。・・・ネフド砂漠-ダハナ砂漠-ルブアルハリ砂漠-ワヒバ砂漠
そんな環境でのイスラム教を立ち上げたのだから、遊牧部族の宗教=軍事共同体創設運動と考えてよいだろう。紛うことなき沙漠の新思想といえよう。それは、ノマドによる都会の包囲と見ることもできよう。

ノマド文化に注目するなら、レバントの北半分も見ておくべきだろう。フェニキア/レバノン[ティルス-シドン-ベイルート-トリポリ]とシリア/アラムからなる地。南レバントに比べれば、肥沃な三日月地帯にもさしかかっているから、風土は違うといえなくもないが、ここも沙漠地域と考えてよかろう。ユーフラテス川の方にかけて、ステップ植生が斑に混じるシリア沙漠があるからだ。
ここでピンとくるのは、フェニキアが広大な都市国家群を形成したこと。(ビブロス/ジュベイルが発祥の地)これは、遊牧の海への発展系と違うか。ある意味海でのノマド化。ただ、本質的には地中海性気候帯の都市間交易共同体であるが。北アフリカに展開したベルベル人は陸で展開したが、海がフェニキアということで両者は同根ではあるまいか。
【リビア】レプティス・マグナ:フ@B.C.1100
【チュニジア】カルタゴ[チュニス]@B.C.820
【アルジェリア】アルジェ@B.C.1200
【大西洋側モロッコ】カサブランカ@@B.C.7C
と言うのは、北アフリカはレバントとは比較すべくもない広大でガレているサハラ大沙漠があるからだ。
 【北】アトラス山脈-地中
 【東】ナイル
 【西】大西
 【南】山地 半乾燥灌木地帯サヘル
極めて過酷な沙漠であるから、ここから一神教的思想が生まれてもよさそうに思うが、そのような兆候は全くない。文化的にも大きく発展ことはなかったようである。おそらく、沙漠に隣接する灌木地帯が広大だからだと思われる。植物相からいえば、沙漠のオアシスより余程魅力的な地域だが、見捨てられたのはおそらく風土病や害虫の怖さだろう。沙漠の良好な衛生環境とは比較にならぬほど劣悪な地なのである。
レバントの砂漠の民は、海のノマドとしても発展した訳だが、サハラを後背地とする北アフリカの都市が中心であり、遊牧文化の枠内に拘ったように見える。北地中海へは、北アフリカから派出する形でしか進出できなかったように見える。・・・【イタリア半島】、【アドリア】、【イオニア】、【エーゲ】<クレタ><キプロス>はギリシア文化圏と見てよさそう。フェニキアはキプロスの一部を除けば定着しなかったようだ。だからこそ、草原牧畜型文化のギリシアの勃興を許したと言えなくもなかろう。
---北アフリカから進出した地点---
【ジブラルタル
峡】タンジェ@B.C.3C
 →【イベリア半島大西
沿岸】タルシシュ・・・フェニキアと錫のの仲介交易拠点
 →【イベリア半島地中
沿岸】<アンダルシア><ムルシア><バレンシア>
  <カタルーニャ>バルセロナ@B.C.3C
 →<バレアレス諸
><ミノルカ
 →【フランス地中
沿岸】<ラングドック=ルシヨン>
  <プロヴァンス>@B.C.7C <コート・ダジュール>−
【カルタゴ】
 →【ティレニア
】<コルシカ・サルディニア><シチリア>一部

結局のところ、北アフリカで大繁栄したのは、狭い領域の、ナイル川岸。名称としてはエジプトである。西は広大なサハラ、東もシナイ〜アラビアの砂漠域であり、特異的な地域である。正確に言えば、紅海の東沿岸も沙漠ということ。・・・ヌビア沙漠@スーダン[ナイル川東〜紅海] バユダ沙漠@スーダン[ナイル川支流間] ダナキル沙漠@エチオピア北東部〜エリトリア南部
エジプト繁栄の根拠はよく知られているように年に一度の大洪水。これを利用する農耕地域であり、遊牧主体の周囲とは全く異なる文化圏ができあがった訳だ。耕作地の排水技術が支えた訳だが、いくら高度であっても、他の地域では無用の代物。従って、地域的発展性には乏しい。しかも、ナイルの流れが安定していたからこその栄華。この大前提が崩れればひとたまりもない。そんなこともあり、没落を余儀なくされたのだろう。それと共に、古代のナイル教も消滅したのだと思う。キリスト教あるいはイスラム教に飲み込まれるのは必然だろう。

アラブ系の砂漠はこんなところだが、その隣接地、アナトリア半島/ヒッタイト/トルコとペルシア/イランのうち、後者には沙漠があるので、ここも見ておこう。
その前に、ペルシアとアラブの間をざっと俯瞰すると、こんな感じか。・・・
北レバントの東はメソポタミアと単純に書いてしまったが、そこはチグリスとユーフラエスの2つの川の間を指す。さらに、チグリス川より東はアッシリア。但し、下流部分は別で、デルタ域はバビロニアである。この3地域が接する辺りの巨大都市がバグダット。尚、メソポタミアやアッシリアの北方はアルメニア。
ここらは、山岳地からの、豊富な雪解け水が<流れる肥沃な三日月地帯である。
そして、これらの東方に当たるのがペルシア/イラン。但し、ペルシア湾沿いはエラム。
ペルシャには、テヘラン南東のイラン高原の塩砂漠タイプのカヴィール砂漠がある。そのすぐ南東にはルート砂漠も。
さらに東へ進めば、インダス川流域に至る。その東方はパキスタン東部からインドラージャスターン州にかけてのタール沙漠

こうした沙漠地帯は交通の障壁に思えるが、その難関をものともせず交流路とみなしていたのが遊牧民である。古代から一瘤駱駝の交通路が存在していたということ。


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