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2015年12月17日

蛇信仰風土を考える
(先ずは折口/吉野論から)

十二支生肖像について、素人的に書きなぐってきたが、[→]内容はまあいい加減なもの。浅知恵同士で議論などしたくもないから、その程度で十分。・・・丸暗記を止めて、少しはご自分の頭でお考えになったらというご提言に過ぎない。
その過程で、それなりに様々な本を眺めた。(小生の場合、先ずは多読を狙う斜め読みの速読から、が習い性になっているので。今や、ネット予約で図書館から一時に10冊x2箇所から借用の時代だし。ご近所に夜に取りにいくだけだから、いたってお気軽。)ただ、お勧めしたくなるような本はほんの僅かだった。

全体の印象から言えば、曖昧な概念の著述だらけ。しかも、「私はこう考えたい」と新説提起らしく記載されていても、何故なのかの論理がさっぱりわからなかったりする。情緒的に同意を求めるための例示があるから尚更こまる。他説の方が妥当とも読めたりする訳で。こうなると、短時間で数多くの本に一気に目を通している者にとっては苦痛。

そのお蔭で、蛇信仰風土を考えるなら、読んでおくべき本が見えてきたとも言える。

一番のお勧めは、折口信夫:「霊魂の話」@青空文庫

但し、この本で取り上げているのはたまたましひのことだけ。蛇とは全く無関係。
しかも"私にもまだ、はつきりとした説明は出来ないが、多少の明りがついた"程度の著作。

この話を踏まえて、蛇を日本人の祖先神と見なす吉野裕子説に触れるとよい。

但し、その前に、古事記(特に上巻)を、日本書紀等を参考にせずに、素直に読んでおく必要がある。アンチ蛇信仰の土壌を理解するために。( 「記紀」ごちゃまぜで読んだら、なにもわからなくなるのでご注意の程。解説本はほとんどがそのようなタイプなので避けた方がよい。)

ただ、読むに当たっては留意点がある。そこらを書いておこう。

「霊魂の話」など、反証などいくらでもありそうな「お話」。かなりの強引さは否めない。

一方、吉野裕子説も、「霊魂の話」を読めば、"蛇を日本人の祖先神と見なす"考えは、いかにも雑な仮説に映る。しかも、祖先神と一般の神との違いもどうなっているのかわからない。世界中蛇信仰が広がっているのは事実だが、蛇以外を祖先神としている部族などそこらじゅうに存在する訳で。
しかも、足無しが蛇信仰の大きな決め手としながら、四足の龍やイメージが明瞭とは言い難い雷と同一視するし、明らかに天と地の媒介者たる虹まで一緒くたに。現実にはどれも蛇と習合した信仰形態は存在するが、その混沌をそのまま用いて原始信仰と見なすのは飛躍のしすぎ。
それに、古事記はどう見てもアンチ蛇信仰の書だが、それを蛇信仰が現れている例証に使うから、どうしても無理が重なる。
つまり、こちらも矢鱈と強引なのだ。

しかし、この強引さを批判するのは的外れ。
コレこそが注目すべき点だからだ。

他書の最大の欠点は、包括的に眺める視点を欠いたままで、細かな主張を重ねる風土にどっぷり浸かっているところ。ミクロ的には論理がありそうに見えるが、読者からすれば、それは全体のなかでどういう意味があるのかさっぱりわからないのである。
どちらも、強引すぎるとの批判を浴びることを百も承知で敢えて踏み切った著作と思われる。

この俯瞰的に眺めているところが肝である。
簡単にまとめてみようか。

先ず「霊魂の話」。
世間一般では、日本は八百万の神のアニミズム(万物精霊信仰)が基層とされている。折口説は、その見方は表層的というもの。本質は、マナイズム(北方のシャーマニズムとは違うが呪術を伴う靈信仰)にありとの主張。タマ(魂/靈)は、あらゆるものにソコ存在するのではなく、憑依すると考える訳だ。従って、憑依させる超能力者が祭祀者ということになる。
古代信仰がこうしたものだったと証明するのは極めて難しい。逆も同じだが。いきおい強引にならざるを得まい。そうしなければ、意義を失う。

一方、すでに述べたように、吉野裕子説の強引さも際立つ。
従って、読み方には注意が必要である。

「世界各民族に共通する祖霊としての蛇」との主張を見た瞬間に、事実誤認と考えるべきではない。蛇以外の祖神であり、蛇トーテムで無い部族であっても、十分通用する話であることを理解しておくべきである。咬まれれば死以外にない畏怖対象に対して、同類だから難儀を与えないで欲しいと願うのはあり得ること。

古事記にしても、どう見ても蛇は嫌われものである。・・・
成敗した八俣遠呂智は蛇とはっきり記載しているし、足名椎、手名椎とその娘、櫛名田比売が蛇族なら、蛇殺害は禁忌の筈。
アマテラス大御神を蛇神と見なすのも無理があろう。
根の国で登場する蛇にしても、信仰対象からほど遠く、呉公矢や蜂と同じ厄介者以上ではなかろう。
大物主にしても、古事記は決して蛇と見なしてはいない。
皇室祖先も和邇体から生まれたとされているが、蛇体から生まれたのではない。
和邇の場合は嫌われていないが、蛇体の肥長比売は、言葉が話せるようになった皇子に嫌われた。

しかし、國生みのアマノヌボコからして、蛇体の象徴の可能性は否定できない訳で、蛇信仰は根深く、広範なのは間違いない。
現代の信仰にまで引き継がれている様々なものの多くが、蛇体の象徴物であるとの主張は至極正当なものと言えよう。そこまで、深く広く蛇体崇拝が拡がった理由を考える必要があろうというのが吉野論の本質である。

これだけで何が言いたいかおわかりだろうか。

マナイズムだからこそ、タマが憑依した蛇体が畏怖感として圧倒的だったということでは。
蛇の目が信仰対称というより、マナイズム信仰の文化圏ではもともと「マナ子(目玉)」にタマの威力を感じるもの。下手に視線を浴びると呪術にかかり命を奪われる危険性さえあるからだ。
   「眼で見ると、日本語は海洋民族語」[2011.1.27 ]
この辺りは北方シャーマニズムの呪術とは全く違うが、雑種民族であるからそれも後々習合してしまう訳である。
古事記が蛇神を措定しないのも納得がいく。混沌から現れるのはあくまでも伸びるアシであり、最初の婚姻にも柱が不可欠。それらこそが最初の依代ということになろう。マナイズムこそが歴史の原点であると太安万侶が看破したということ。
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