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2005.1.7
 
 


古伊万里から学ぶ…

 英語の“china”とは磁器のことである。一方、“japan”は焼物ではなく、塗り物の漆器を表す。

 日本には至る所に窯があるから、陶磁器王国と考えがちだが、磁器の本家は中国である。そして、欧州に磁器がなかったことも、この言葉からわかる。

 しかし、今では、欧州製高級磁器製品に人気が集まる。
 何故、これほど大きな変化が生じたのか、伊万里焼の変遷で考えてみたい。

 磁器といえば、1000年の歴史を誇る江西省の「景徳鎮」である。歴代皇帝の庇護のもと、工芸品として、最高の技巧を磨き続けてきたと見てよいだろう。
 その結果、様々な手法(青花、粉彩、釉上彩、釉下彩)が開発され、数々の名品を輩出してきた。(1)

 素人でも、景徳鎮と言えば、透き通るような美しさが目に浮かぶ。とは言え、今では、藍色の模様が染付けられた白磁の器などたいして珍しくない。だが、昔は、景徳鎮以外では、これほど美しい器はなかなかできなかったのである。

 原料と技術の入手が難しかったことが、その理由とされている。
 磁器原料は、陶器原料の粘土とは違い、石英系の岩石紛である。産出する山は限られていたのだ。
 景徳鎮の場合、近くの高嶺(カオリン)山に、原料に最適な岩があったのである。

 原料が簡単に入手できれば、磁器産業は隆盛を謳歌できる。と言うのは、生産性の点で、磁器は陶器より圧倒的に有利だからである。
 陶器は質が安定しない粘土を使うので成型が面倒だ。これに対して、磁器は岩石の粉を練るだけ。大量成型も簡単だ。この差は大きい。

 しかも、欧州が肌が白い磁器を珍重した。そのお蔭で、景徳鎮は大繁盛したのである。

 しかし、原料さえ見つかれば、技術を導入するだけで、真似できる。
 実際、日本の場合、秀吉の朝鮮出兵時(1592/1597年)に、李朝文化を支えた陶工を連れて帰り、生産を始めている。李参平が、有田の泉山で、最適原料を発見したと伝えられている。(2)

 こうして、有田で磁器が焼かれ始めた。しかし、景徳鎮の地位はほとんど揺るがなかった。

 その理由は、李朝の美しい白磁を見ればわかる。白磁の緻密な肌と、深みを感じる色調は素晴らしいが、景徳鎮のように、白の美しさをさらに際立たせる、深みのある藍色の染め付けは避けたからだ。
 技術もさることながら、染付原料(呉須:コバルト)がなかなか手に入らなかったからだ。

 朝鮮は、藍の染付け無しで、白磁そのものの美しさを徹底的に追求したと言えよう。

 一方、日本は違う道を歩む。

 中国の染付原料に依存しても、白磁に藍の世界を選んだのである。中国で染め付け(俗に言う南京染付け品)たり、青色原料を輸入(東インド会社が関与したと思われる。)した。景徳鎮キャッチアップを忠実に追求し続けたと言えよう。
 この姿勢が、日本の磁器輸出の隆盛につながる。(3)

 明の時代、突然、景徳鎮の輸出が止まった。このため、類似品を作れる有田に代替需要が集中する。この好機を生かし、有田は大増産を図り輸出で繁盛したのである。有田は、国内のお金持ち相手のビジネスを立ち上げ済みで、技術的にも景徳鎮に追いついていたのである。(景徳鎮の陶工が来日した可能性もあるが。)

 この頃の輸出製品は「古」伊万里と呼ばれている。

 有田という製造場所の名前ではなく、港湾所在地の伊万里で呼ばれたのは、海外市場中心だったことを示している。顧客は、欧州のお金持ちだったのである。
  (海外には、今でも、素晴らしい古伊万里コレクションが残っている。)

 古伊万里は、顧客のニーズに応えるべく、緻密な技巧を凝らし、欧州人が喜びそうな「東洋異国趣味」を徹底追求した。実用性は薄いが、大型で派手な装飾用製品に注力したのである。

 その結果、古伊万里が欧州市場を席巻することになる。

 その過程で、柿右衛門の赤絵のような独自技術も生まれてくる。
 これは、明の赤絵(南宋時代から存在)に対抗すべく、研究を重ねた成果と思われる。技術で成功した自信に裏打ちされ、独自スタイルの追求を始めることになる。柿右衛門ブランドの確立と言ってよいだろう。
 言うまでもないが、独特の赤色の発色が赤絵の本質ではない。赤をポイントにして、緑、黄、紫、青といった色の、盛り上がったガラス質が表面を装飾している豪華な焼き物のことである。

 さらなる金襴手といった様式美も登場し、古伊万里は完成の域に到達する。華美を好む欧州の顧客に対し、これでもか、といった感じで、技巧の粋を提供したのである。
 その美的感覚は現在でも通用する。
  (「いい仕事してますね〜」の中島誠之助先生が復刻版を出すくらいだ。(4))
 
 古伊万里は、日本文化で欧州制覇、といった雰囲気で新製品開発を進めていたと思われる。各分野の職人が力を尽くし、世界最高の製品作りに励み、現場は熱気に溢れかえっていたと思う。

 こうした情熱が、素晴らしい様式美を作りあげたのである。天才がいた訳ではなかろう。

 [日本の地場産業は、こうした激しい情熱を忘れてしまったのではないだろうか。]

 繁栄を謳歌した古伊万里だが、残念ながら、長続きしなかった。

 景徳鎮からの輸出が復活した上、欧州でも磁器が作れるようになったからである。
 ついに、マイセンが類似製品を作り始めたのである。磁器は極東の珍品ではなくなった訳だ。ブームはやがて下火になり、欧州の輸入量は萎んでしまう。

 技術獲得で生まれた古伊万里だが、今度はマイセンが技術を獲得して伸張したのである。

 古伊万里は事業の大転換を迫られる。国内市場を狙うしかなくなったのである。

 しかし、残念なことには、人気を博した華美な装飾用大型製品の国内市場は小さい。

 そこで、上手ものの皿に注力することになる。本来なら、力を発揮できる飾りものの大皿を販売したかったのだろうが、市場が大きい小皿の大量生産に傾注してしまう。
 これが、骨董屋で良く見かける小皿だ。

 はたして、このような取り組みで、古伊万里は成功裏に事業転換ができただろうか。

 ・・・力はあったにもかかわらず、成果は「そこそこ」ではなかろうか。
 何故か?
 → (2005年1月11日)

 --- 参照 ---
(1) 特集「江西省・景徳鎮 変容する千年の焼き物の里」(王浩=文)
  http://www.peoplechina.com.cn/maindoc/html/200406/teji-1.htm
(2) 陶山神社由来 http://www.arita-toso.com/shrine/shrine.html
(3) 故 深川正 著「海を渡った古伊万里」ウエブ版 http://www.koransha.co.jp/umi/index.htm
  (原著:主婦の友社刊 1986年)
(4) 復刻 http://www.franklinmint.co.jp/prod_SN_Imari_Coll_No1.htm


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