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2005.1.11 |
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有田の競争相手から学ぶ…何故、古伊万里は技術で先頭を走りながら、その後、国内市場で圧倒的な地位を築けなかったか。→ 「古伊万里から学ぶ」 (2005年1月7日) その第一の原因は、技術発展を阻害した方針にあるのではないか。 よく知られるように、鍋島藩は、官窯の景徳鎮を真似た管理を導入した。人の出入りを監督するとともに、藩御用や幕府献上品として製品出荷も握っていたようである。これによって、技術の拡散を防いだと言えよう。 もっとも、事業の仕組みは優れている。画期的と言ってもよい位だ。 製造プロセスに合わせて分業体制を確立し、分野毎にプロフェッショナルが育つように工夫した。これが、質の高い工芸品の大量生産を支えたことは間違いない。 この管理体制が、色鍋島の技巧を維持したと見ることもできる。(1) しかし、革新の芽を摘むマイナス効果は大きかった。事業の仕組みにこだわったため、新市場の挑戦が遅れてしまった。これで、成長路線から外れてしまったのだと思う。 そもそも、技術流出を止めるのは難しい。 流失防止は必要だが、それより、常に先を走ることの方がずっと重要である。革新を阻害するような流出防止策は、自ら首を絞める結果を招き易いのである。 鍋島藩が厳格な管理体制を敷いたから、「セトモノ」の瀬戸が磁器製造技術をマスターするまでに200年もかかった。競争相手封じ込め効果はあった訳だが、防止はできないのである。(2) 流出先が瀬戸だけで終わる筈はなく、いったん流出すれば、すぐに日本全国に広がってしまう。 そのお蔭で、全国的に磁器開発と市場開発が活発化してしまう。競争は激化し、有田は技術で勝つどころではなくなってしまったと言えよう。 第二の問題は、色絵の領域での市場開拓や新文化を広げる努力を怠った点だ。 国内市場で伸びるための方策を、本気で考えようとはしなかったようだ。 欧州での成功に習い、日本のユーザーのニーズに直対応したのである。顧客の要求に合わせた結果、赤絵から離れ、藍の小皿中心にしてしまう。装飾品から、実用的高級品に転換せざるを得なくなった訳だ。 強みを生かすという点では、極く自然な流れともいえるが、緊張感を喪失しかねない方針である。 これが、ダントツの地位から滑り落ちるきっかけになったと思う。 新興勢力は日常用飯碗市場勃興の流れを作り出し、急成長したのだが、伊万里は上物にこだわり続けて 、下手ものの碗市場を取り逃がし、この波に取り残されてしまう。技術力は発揮できなかったのである。 端的に言えば、皿への注力しすぎである。 japan との戦いを意識したのかもしれない。もともと、日本の食器は漆器だった。椀は木製との常識を打ち破ろうとはしなかったのである。 しかも、運悪く、船から鉄道へと運搬手段が変わり始めていた。 港湾地「伊万里」の名前から、生産地「有田」に変わらざるを得ない状況にあった。伊万里の運送インフラは強みではなくなり、鉄道輸送に対応しやすい地域が物流で優位に立ったのである。 この変化に乗じ、集散地機能で力を発揮したのが多治見である。 製品は美濃と呼ばれたが、産地の地域としてはかなり広い。様々な製品が開発しやすかったのもプラスに働いた。 飯碗はパーソナル品で、セットは必要ではなかった。バラエティ豊かな美濃は好都合だったといえよう。 もっとも、有田ほどの品質には達しなかったらしい。瀬戸から磁器技術を導入した後発だし、質が落ちる地元原料を使ったからだ。しかし、日常用磁器としては、落ち着いた雰囲気が出るから、一般の顧客から見ればかえって使いやすかったかもしれない。 平民の大衆文化が広がり、食器需要が爆発的に伸びていた時だ。美濃は、こうした点を見抜いて、全国に浸透することに成功したのである。椀文化を碗文化に変えた訳だ。 一方、有田は上手モノの非平民文化にこだわり続け、このチャンスを生かせなかった。 美濃は、日常用で成功しても、そこに留まってはいなかった。 天草から原料を調達し、有田品質を実現してしまうのである。こうなると、日常器から上手モノまで、製品ラインアップが揃う。碗文化構築を武器に、さらなる市場浸透を図ったのである。 こんなことが容易くできたのは、広域の窯を多数集めることに成功した点が大きい。日本では、問屋が窯元のサンプルを選んで、各地を回って注文をとってくる仕組みだから、製品競争を促したのである。 当然、イノベーターも生まれる。 これは、有田の管理型とは対照的な仕組みと言えよう。 お蔭で、今でも、飯茶碗といえばほとんどが美濃品だ。 ところが、美濃にも好敵手が存在する。四国の砥部である。 飯碗分野では、結構人気があるそうだ。 砥部は天草産原料ではなく、地元原料を使っている。このため、白さは余り出ない。薄くて透き通った色調を好む層に応るのは難しい。 弱みに聞こえるが、これを強みに変えた。淡黄磁である。(3) さらには、陶器のような厚手の質感を加味することで、民具の暖かい食卓イメージを打ち出す動きにも乗った。飯碗は、もともとは木椀だったのだから、そうした文化の素地はあった。 要するに、磁器ビジネスは技巧を売るのではなく、文化を売る商売なのである。 文化を生み出しそうな人達を、いかに結集するかが勝負なのだ。 --- 参照 --- (1) 十三代 今泉今右衛門氏 (人間国宝) 主要作品 http://www.nihon-kogeikai.com/KOKUHO/IMAIZUMI-IMAEMON/IMAIZUMI-IMAEMON-SAKUHIN.html (2) 磁祖 加藤民吉 http://www.city.seto.aichi.jp/setomono/rekishi/newpage9.htm (3) http://www.iyo.ne.jp/tobe/yaki/reki.htm 歴史から学ぶの目次へ>>> トップ頁へ>>> |
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