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2009.2.26
 
 


倭国以前の石器時代を考える…

 倭人について考えてみたが、これは歴史のなかでのある一点に注目しただけ。これでは流れは見えてこない。
  → 「日本の古代史を考えてみた」 [2009年2月19日]

 そこで、そこに至る流れを描いてみることにした。もちろん独断。
 一般常識をあてはめ、ひとつの仮説を作ってみようという訳。早く言えば、石器から土器へと進んでいく流れのなかで、倭国がどのように興隆したか考えてみるだけのこと。難しいことは何もない。
 ほんの少しの情報しかなくても、頭を使えば、イメージはいくらでも膨らんでくる。
 この時、注視すべきは、もちろん北九州地域。ここが、石器時代に、日本のなかでどんな位置を占めていたのか考えてみるということ。

 さて、考えるに当たって、忘れてならないのは、倭国の住民は「海人」だったという点。

 それでは、始めよう。

 石器時代なら、せいぜいが丸太に乗ったイメージか。それはともかく、地場海産物の採取経済だったと考えることになる。
 ただ、海産物がいくら豊富だといっても、魚介類の蛋白質だけでは摂取カロリー不足に陥る。と言って、山は照葉樹林で、生産力は極めて弱い。山の幸を集めながら、漁労で食べていく自給自足の小規模集落がポツポツあっただけと考えざるを得まい。部族的な広がりは難しかろう。なんとか生きていくだけだ。

 一方、本州北部は落葉広葉樹林帯。この森の生産力はかなり高い。従って、集落規模はかなり大きい。ただ道具が貧弱だから、耕作は無理。もっぱら、森からの採取と狩猟が中心だったろう。もちろん、川では毎年鮭が多量に獲れるから、結構栄養十分な生活が送れたのではないか。ただ、余裕はありそうだから、栽培農業と呼べるほどのものではないが、毎年転地する焼畑もどきの農業は行っていた可能性はありそうだ。しかし、大量な収穫とはいかないし、他の食料を合わせても、貯蔵量はたいしたことはなかったろう。富の蓄積は、余り進まなかったのではないか。
 従って、北九州より集落規模も大きく、圧倒的に豊かだったが、住居はそれなりのものという状況。経済は頭打ち状態だったろう。

 しかし、九州は貧困に甘んじてはいなかった。優位な点があったから。それは藻塩の生産だ。日本は岩塩がないので、北九州地域は交易品として藻塩用の干し場をつくっていたのでは。これなら結構大量に作れる。塩や干物魚介類のバーター貿易で食糧を調達することもできよう。始めは、集落周辺の丘陵地帯に農奴的な焼畑集団を作った筈。その基盤ができれば、周辺への交易拡大である。「海人」だから、船作り技術と航海技術に長けており、範囲は広がる。広がれば広がるほど、富むことになる。
 要するに、北九州は交易で食べていく体制を早くから始めたということ。

 ただ、塩は北九州独占ではない。これだけで繁栄することなどあり得ない。他の魅力的な交易品があった筈。考えられるのは以下のようなもの。
  ・“珠”(真珠)
  ・貝殻と木材加工品
  ・黒曜石とその加工品
  ・“浮宝”(船材[杉、豫樟])
  ・石製の斧

〜 黒曜石産地(1)
佐賀 伊万里の腰岳
[最大の生産地]
長崎 松浦半島
(牟田,針生島古里海岸)
壱岐
大分 国東半島先の姫島
宮崎 桑ノ木津留
熊本 阿蘇(象ケ鼻)
白浜
鹿児島 日東,上牛鼻,
竜ケ水,長谷
島根 隠岐
(加茂,久見)
長野 麦草峠,霧ケ峰,
男女倉,和田峠
奄美/
沖縄
未発見
近畿/
瀬戸内海
未発見
関東 箱根,伊豆,神津島
栃木 高原山
北海道 白滝,置戸,十勝三股,
赤井川,等
青森 深浦
秋田 脇本
岩手 雫石
山形 月山
新潟 板山
佐渡
 魏志倭人伝では倭人の貢物は真珠だから、これが富をもたらしたというのが自然な考え。しかし、冷静に考えると、戦略的に重要なのは“珠”ではなく、黒曜石と船材の方である。
 前者で考えてみよう。この石は特殊だから産地は限られている。産地探索能力がなければ入手不可能。しかも、石の破砕方法や、加工の技術がなければたいした道具ができない。さらに、作った道具の交易ルートも作る必要があろう。結構おおがかりな産業構築になる。おそらく、これに長けていた勢力が北九州にいた。ここが核となって、日本全土に様々な技術が伝播していったのだと思われる。

 北九州地域がそんな拠点になったのには理由がある。石の利用方法開発に格別熱心だったのである。森の獲物は少ないから、失敗を減らすために狩猟用具は相当高度なものが要求されていたからだ。しかも、丘陵地帯の焼畑地区は狭隘。生産性をあげるための道具が欲しかった。それに、集落間での戦闘にでもなれば、石の鋭さが勝負を決める重要な要素となる。
 だが、「海人」集落で、石が一番大きな役割を果たしたのは、船材切り出しと、船作り作業。道具が優れていると硬い良材を楽に切り出せるし、材木加工精度も上がるから設計技術も格段に進歩する、この影響は大きい。船がよくなれば、材木や石の産地探索・切り出し・運搬の生産性が向上し、それがさらなる船と航海術の品質向上につながるという好循環が生まれるからだ。
 これを考えると、「海人」とは、漁労に従事する肉体労働者ではなかったといえる。資源を求める探険家であり、エンジニアでもあった。しかも、モノ作りの技能者役も果たし、航海術を理解する知識人だった。

 もっとも、石器時代だから、これでは少しオーバーな表現だろう。
 要するに、北九州の集落は、北方と異なり、交易に熱心だったということ。陸路運搬は厄介だし、そもそも道作りが難しいから、海と川が交易ルートだったが、船での長距離航海はまだまだ危険と隣り合わせだった。しかし、この地区の「海人」はリスクを考えながら、果敢に外海航海に出て行ったのである。もっとも、海が荒れる冬はよしただろうが。
 航海といっても、海図はないから、陸地目視で、潮目と天気次第。天候が崩れそうになれば避難しながら。平均航速は、歩くようなスピードだったろうが、日本海側は北海道まで到達していたのは間違いないだろう。言うまでもないが、朝鮮海峡横断はこれより格段に難しい。
 当然ながら、航行安全祈願の呪術師がとりしきる世界だった。その呪術用具は“珠”。
 そして母港たる集落としての信仰対象は、海から見える目印の山と、そこに育つ船材になるような大木。両者は切ってもきれないつながりがあった。

 この時代を呼ぶなら、【黒曜石時代】がよさそうだ。
 次は、【土器時代】である。 →続く[来週]

 --- 参照 ---
(1) 小田静夫: “黒曜石研究の動向” http://ao.jpn.org/kuroshio/kenkyudoko.htm
(黒曜石の写真) [Wikipedia] http://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:ObsidianOregon.jpg


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