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2009.3.5 |
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倭国以前の土器時代を考える…【黒曜石の時代】の北九州地区を想像してみた。生産力は微弱だったから、小さな集落でしかなかろうが、交易の中心だった可能性があり、経済は好調だったと思われる。→ 「倭国以前の石器時代を考える」 [2009年2月26日] 交易圏は次第に拡大していくが、これと並行して、石製の道具も長足の進歩をとげたに違いない。このため、繁栄する狩猟/焼畑民も増えたに違いない。 そうして労働時間の余裕ができたところに、土器の技術が入って来た。このお蔭で、食糧の大量保存の質が急速に高まった。さらに、調理技術が高度化し、硬いものも食糧化できるようになったから、生産力は急速に高まってきた。。 ここが土器時代を眺める場合のポイントではないか。これを、「海人」の視点から見ると流れが読める。 もともと、「海人」は、魚介類の“焼く”調理が好きだったと思われる。(焼き魚料理は中国本土では文化として消えているようだが、日本では、今もって、丸焼きは魚料理の基本だ。)船から上がり、濡れた体を温める焚き火に集まって、皆で焼き魚を食すことが、なににもまして嬉しかったということかも。 この「海人」は、交易業に携わる人々でもあるから、焚き火料理の習慣は全国的に結構広まっていたに違いない。山では、獣肉の焚き火料理だったと思われるが。 これが、土器の出現で大転換する。 今迄は、“煮る”調理とは、岩の窪みの水溜りか、木製のくりぬき器に、焚き火で熱せられた石を落とす方法だった。それが、土器の登場で、一気に大量調理できるようになり、大勢が食べれるようになる。食糧が十分なら、集落規模拡大が簡単になった訳である。 ちなみに、“火焔”イメージの出土土器が多いのは、このシーンを考えれば当然の帰結だ。土器の下部を土に埋めて支え、焚き火で“煮る”料理を、神と一緒の宴会形式で頂くのだから、その様子を模した形になるのは自然なこと。(山岳宗教の「火」の原点はこの辺りにあるかも。) だが、大量調理ができるようになったと言っても、港の後背地の丘陵からの収穫はたいしたものではなかった。これを増やしたくなるのは当然の流れ。山の民の焼畑や狩猟の技術が欲しくなる。 しかし、山の民は毎年転々と移住する体質だったから、「海人」は、定住化を求めたのではないか。海彦・山彦とは、この混交を示す話だと思う。 言うまでもないことだが、重くて壊れやすい土器は船での運搬用には不向き。土器技術が直接的に「海人」集落の生活様式に大きなインパクトを与えた訳ではないが、間接的には大きな変化をもたらした。生産力としての“山”の重要性に気付き、社会構造を変えたのである。。 高地焼畑で作れる粟や稗のようなイネ科植物や、粉食調理可能な乾燥団栗といったものの価値が急上昇したし、燃料材の調達ができるか否かで繁栄が制限されることに気付いたということ。 「海人」は、農業型集落への転換を図ったに違いないのである。 と言っても、焼畑は、まだ耕作農業と言える段階にはなく、燃料として木を切った跡等を燃やし、草や木を植え付ける程度だったろう。しかも稲ではないから、収率は悪い。土器があるからといって、食糧化率が飛躍的に上がったほどはいかなかったかも。 ただ、乾燥食糧を長期に貯めることができるから、生活が安定し、富の蓄積が進んだとは言えそうだ。 おそらく、北方では、団栗の灰汁抜き粉化技術開発が進んだし、酒の醸造も始まったろう。食糧が豊富になり、余剰も出るから、犬飼育があっておかしくない。 土器の出現で、社会は、文化的にかなり円熟したと思われる。 もともと、こうした集落は、獣や木の実といった食糧と、木材を与えてくれる、森と山への感謝と畏怖感からくるアニミズムが濃かったが、その信仰はさらに篤くなったと思う。 収穫物を神にお供えして食すという宴会型儀式だらけかも。そこで使う土器は神と係わるものだから、機能性ではなく、派手な装飾が基本となる。 そのことは、収穫物は土器に入れられ、神の管轄下におかれるということでもある。 外部から見れば、略奪可能な富である。集落の「神」対「神」の戦いが始まっておかしくないのである。焼畑で、転々と移住する山の民は戦乱を避けるが、定着型になると戦乱に巻き込まれる可能性は急激に高まる。 時代の先端を歩んでいた「海人」は、この変化をいち早く見てとり、武力強化に動いたと思われる。 と言っても、海路での交戦はそう簡単ではない。十分な人数の武装集団を運搬する必要があるし、戦利品の食糧を運んで帰る輸送能力がなければ無意味になるからだ。大型船か、多数の小型船を持たない限り、突然の攻略による小規模な略奪位しかできない筈である。 それでも被害は甚大だから、各集落には海を警戒する物見櫓が必須だったろう。同時に、食糧貯蔵庫だった神域は武装拠点化していた筈。 このことは、神域を司る呪術師と、武装集団リーダーの二頭制政治の仕組みが必要になったということ。 こんな仕組みになれば、マネジメントの優劣で集落の盛衰が左右されるようになってもおかしくない。成功すれば、大集落化する。そして、経済規模が巨大化すると、さまざまな機能を集落内に持ち込むことができるので、さらなる繁栄を謳歌できるという好循環が生まれる。 実際、三内丸山には加工産業まであったそうだ。(1) ただ、いくら大集落といっても、武装連合を組むとか、経済的的な統合を図る必然性はなさそうである。 【土器時代】は、まだまだ、土地の生産性が低かったということでもあろう。 以上、縄文時代と称される時代の入り口を、よく調べもせずに描いてみた。まことにいい加減な記載だが、それには訳がある。土器など、実はどうでもよいのである。 土器より重要な出土品があるからだ。 →続く[来週] --- 参照 --- (1) 三内丸山遺跡(縄文時代)-遺物(交易品) [動画あり] http://webmap.torikyo.ed.jp/ipa/k-jda1/k-jcr1/k-jsr2/IPA-san1030.htm (土器の写真) [Wikipedia] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:Jomon_vessel_3000-2000BC.jpg 歴史から学ぶの目次へ>>> トップ頁へ>>> |
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