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2009.4.16 |
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銅鐸文化圏とは…淡路島の意味を探ってみた。まあ、調べもせずに想像してみたにすぎない。→ 「国産みにおける淡路島の意味」 [2009年4月9日] 素人の勝手な説だから質は低くて当然だが、何をお伝えしたかったか、おわかり頂けただろうか。 古事記や魏志倭人伝の記載を素直に読むだけでも、シナリオは作れることがおわかりいただければ結構。 情報が余りに少ないと、偏った可能性が高い情報でも使いたくなるのは人情。しかし、それはろくな結果を生まない。たいていは、面白シナリオができあがるだけ。エンタテインメント業者を目指すのなら別だが、世界はどうなっていたか知りたいなら、こんなことは避けるべきである。(将来予測も同じこと。) リアリズムに立脚し、広い視野で、じっくり考え、直観力を働かして欲しいのである。 今回は、この観点から、銅鐸を取上げてみたい。 銅鐸文化圏という概念は、昔よく聞かされたものだ。銅鐸に類するものが、日本以外で発掘されないらしいから、文化論が活発化するのは結構な話。しかし、これを、日本国内の歴史に当てはめようとする人が多く、銅矛文化圏と対比して考えようとする。そのとたんに論旨がおかしくなる。 その原因は単純。矛も鐸も青銅製で、同時期に作られており、おそらく使い道は祭器という、自明とは言いがたい仮定で議論し始めるから。(矛v.s.剣ならまだしも、矛v.s.鐸で考えれば、フィクション化は不可避。「○○地方では鉄瓶の保有数が多そうだ。一方、××地方では日本刀の保有数が多いのは間違いない。鉄瓶文化圏と日本刀文化圏が対立的に存在している。」との主張にうなずける人は別だが。) 銅鐸とは何かという本質論を避け、発掘データを無理矢理歴史の議論につなげれば、こうなるという好見本。 しかし、議論している人達は、そんな主張をおかしいとは感じない。大和圏と北九州圏の権力移動にしか関心がなく、視野が狭いから気付かないのだと思われる。 さて、それでは、銅鐸をどう考えるべきか、話を始めよう。 まずは、マインドセットからの解放。 我々は、すでに、銅鐸のコンセプトを頭に叩き込まれているかも知れないから、これからの離脱が出発点。(展示品説明図に農耕民が銅鐸を崇めるシーンが描かれていたりするが、これに違和感を覚えなかったら、すでに刷り込まれていると考えた方がよい。) 青銅器だから、権力者の宝だろうし、実用性もなさそうだから祭器と想定してしまう安易な発想を捨てる必要がある。大和の勢力が支配を広げていった時代のものだから、小生も、まあそんなものだろうと考えていたが、辻褄が合わない点がある。 ・銅鐸の絵が農作業を示唆しているとはいえ、祭器に不適と思われるトンボや亀 が描かれている。 ・稲作を神聖視している民族が、農耕祭祀に係わる祭器の存在を忘れてしまうとは思えない。 ・小さな銅鐸と巨大な銅鐸があり、同じパターンでの祭祀は難しそうだ。 それでは何か。リアリズムに立脚して考えてみよう。 出土品の分析ではなく、古事記や魏志倭人伝を素直に読むことから始めることが肝要。すると、銅鐸を示唆するような話が登場してこないことがわかる。つまり、歴史を画するような用具とか、注目を浴びるものではないということ。後世、銅鐸を発見したことに、為政者が驚いたのも当然だろう。 読み取れることは単純だが、極めて重要である。 ●神権国家の権力に直接関係する祭祀用具ではなかった。 しかし、出土状況から見れば、銅鐸の存在感は相当なもの。青銅器が簡単に作れる筈はないし、なかには相当大きなものがある。しかも、とてつもない数が発掘されている。どう考えるべきかわからなくなるのもわかる。 だが、出土リスト(1)を見ると、ヒントが隠されている。大和の18個に対し、淡路島は13個。まあ、発掘は偶然のことが多いし、大和は埋まっている土地の上に建物を構築したかもしれないから、比較にたいした意味がないとはいえ、大和政権主導を示す用具ではなさそうである。 一方、出雲の加茂岩倉遺跡と荒神谷遺跡からは大量に出土している。 ●出雲勢力との繋がりがありそうな用具である。 しかも、北九州も含め広範囲に分布していて、銅矛と一緒に使っていた勢力がいてもおかしくないし、銅鐸を用いていた勢力が消滅したことはなさそうだ。 それに、発掘物が様々であるから、突然にして、不要になったというものではなさそうである。 ●徐々に廃れていった用具である。 さて、銅鐸そのものを眺めてみよう。 現代の感覚から見れば、小さいものなら類似品がある。Cowbellだ。機能的には同じようなものと見てよいだろう。銅鐸は大きいから、その音はかなり違うがまあそれほどのものではない。(2) それはともかく、金属音を出す類似品と比較してみよう。
これを眺め、鐸の特殊性からくる、古代人にとっての銅鐸の意義を見つけ出す必要がある。これは分析ででてくるようなものではない。鐸のコンセプトを直観的に見抜く作業になる。結構難しい。だが、極く自然に考えると次のようになろう。 ●揺れると音が鳴ることで、周囲に存在を示すための用具である。 ●固定して使う用具だった。 ●複数個取り付けた可能性がある。 トンボ、亀、文様(波)を描き込んだ銅鐸が多数出土している。「神」としての物体に、地域の状況を示す絵を入れるとは考えにくい。 ●信仰対象ではない。 地域差はありそうだが、大きく重い銅鐸も多数出土している。仏像のように信仰対象なら別だが、音だけなら、多数取り付けた方がよさそうな感じがする。ともあれ、同じ取り付け先なら、より丈夫な構造になったので、大型品も可能になったのは間違いなかろう。 ●用具を取り付けた構造物が次第に大型化した。 そして、なんと言っても注目すべきは、銅鐸が整然と埋められていたという点。しかも、祭祀場所とは思えない発掘地点が多そうだ。だからこそ発見が遅れ、時の為政者が、発掘された銅鐸を見て驚いたのである。古代の神権政治の時代のことだから、敗れた勢力が隠したとか、勝った勢力が捨てたとの主張もあろうが、埋められた状況がどこも同じようなものだから、この見方は無理筋に近い。 使用しない時に埋めて大事に保管したか、埋めること自体になんらかの意味があったと解釈するしかあるまい。まあ、前者と見るのが自然ではないか。 そうなると、現代では、山車のようなものかも。(山車は、それ自体が信仰対象ではないし、祭器ほどの価値は無いが、祭りが終わると、離れた場所で大切に保管される。) ●多くて年1回といった頻度の、滅多に使わない大事な用具だった。 もともと、できたての青銅器は輝くような黄金色。鉄器と違い、錆びて朽ちるものではないから、保存に神経を使う必要もないのに、大事に地中に埋めたのは、その色を保つためではないか。最善の保管方法は特定の条件を備えた場所の土中だと思われる。輝きを重視したのは、昼間、視覚的に目立つ必要性があったということか。大型化もその流れだろう。集落を現した絵は飾りにすぎまい。 ●目立つ飾りものとしても使われた用具である。 さあ、以上から、銅鐸をどのように使われたか想像することになる。ここからは直観力勝負である。(分析から、コンセプトは生まれない。) 小生は、銅鐸を古代の山車用音器と見た。・・・現代の祭りでは、山車に搭載された太鼓を叩いてふれ歩くが、山車や太鼓そのものを拝む人はいない。イベントが終わると、太鼓は綺麗に磨きあげ、どこかに大切に保管される。銅鐸は太鼓の類似品ということ。 ただ、古代だから、現代のような大衆の祭りではなく、支配層の一部のものだったに違いない。 そして、イベントは陸路ではなく、海路である。山車に対して、海船と言ったらよいかも。その海船に乗っていたのは、その地域の「神」だったのではないか。要するに、そんな船であることを示すために必要だったのが銅鐸。 一年に一度程度、そんな海でのイベントがあったということになる。それは何か。 答えは簡単。そんな習慣らしきものが、今に伝承されているからだ。そう、「神無月」である。古代は、各地の「神」が出雲に集まったとされている。これが実話なら、各地の「神」は船で出立し、様々な港に寄港した筈。それを、各港は歓待するルールがあったに違いない。そのためには、出雲参りの船であることを示す必要があり、遠くからわかるよう金属音を響かせて航海していてもおかしくない。 だが、出雲参りは次第にフェーズアウトしていった。銅鐸は埋もれたまま放置されることになった。 出雲勢力が衰退したため、このイベントは無くなってしまったが、そのな残りは「神無月」だけでなく、、神社参拝様式に残っている。二礼二拍手一礼の前に、金属音を響かせ、お賽銭を届けるのが、神社参拝の鉄則だからだ。拝殿を揺らす訳にはいかないから、鐸ではないが。 ・・・これをトンデモ論と片付けるのは容易でないことがおわかりいただければ、本論の目的は達したということ。(尚、上記のような説を表明した人がいない筈がないと思う。) --- 参照 --- (1) 銅鐸出土地名表 http://www.pref.shimane.lg.jp/maizobunkazai/baibuninfo.data/seido.pdf (2) 「銅鐸を叩いた音」 東京大学総合研究博物館 http://www.um.u-tokyo.ac.jp/DM_CD/DM_CONT/DOTAKU/HOME.HTM (荒神谷遺跡:発掘現場の写真) (C) 「松江周辺の観光地壁紙集・U」 http://matsue.art.coocan.jp/index.html 歴史から学ぶの目次へ>>> トップ頁へ>>> |
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