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2009.4.9
 
 


国産みにおける淡路島の意味…

 前回は、突然、魏志倭人伝に記載されている国々の推定話をした。五万とある推定話の一つとして参加したかった訳ではない。記載事項を恣意的に解釈せず、自分の頭で、じっくり考えるべきと言いたかっただけ。
  → 「素人が読み解く魏志倭人伝の国々」 [2009年4月2日]

 お話をしたかったのは、実は、「国産み」の方。古事記を歴史書として読むなら、肝はここだからだ。その前に、是非とも見方を示しておきたかっただけのこと。
 ・・・淡路島から歴史が始まる根拠も示せないのに、お話が面白そうな部分を題材にして、勝手に解釈し合う姿勢はどうかと思うということ。

 と言うことで、先日、瀬戸内海を舟からざっと眺めてみた。岩が露出しがちな島々が散在している“瀬戸”部分と、海が広がる“灘”で構成されていることがよくわかった。家並が見える陸は干拓で広げた場所が大半のようである。要するに、崖や山がちな地域なのである。景色は美しいが、住めそうな場所は限られているというのが正直な印象。
  
 それに、交通もそう簡単なものではなかったと思われる。現代の舟は力があるから、沖を航行しているが、古代はそうはいくまい。潮や風を見ながら、島づたいか、陸沿いに進んだ筈。結構な労力だったし、知力なくしては遭難間違いなしだろう。

 そんな状況で、淡路島(淡道之穂之狭別嶋)が国産みの先頭に出てくるのだ。その次が、四国(伊予之二名嶋)。両者ともに、文化的に進んでいたとか、格段に古い遺跡があるという話も聞いたことがないし、どうしてそうなのか考える必要があろう。
 一応、北九州への覇権移動という視点で、その糸口を考えてはみたが、どうもすっきりしない。
  → 「オノゴロ島伝説の意味」 [2009年3月19日]

 それは何故かと言えば、本州が一番遅れて登場するからだ。瀬戸内海地域なら、吉備でもよさそうに思うが、淡路島なのだ。
 その理由はなんだろう。

 それには、古事記の“島”産みを正直に受け取るしかない。これは、“国”産みではなく、“島”産みなのである。
 良く知られているように、瀬戸内海は氷河期には海ではなかったと推定されている。乾燥気候で、疎な針葉樹林帯だったらしい。ヒトは定住できず、ナウマン象の群れを追う狩猟で生きていたとされる。それが、気候温暖化で海水が入ってきて海になったというのである。約9千年前のことと推定されているそうだ。その変化は結構速かったようである。(1)
 そして、島が産まれた。古事記の記述の通りである。世界は一転したのだ。なにせ、ナウマン象が絶滅した位の大変化。焼畑向きの淡路島が生まれたとはいえ、その環境変化に対応するのは並大抵のことではなかったろう。
(記述に忠実に読めば、氷に閉ざされた日本列島全体のなかで、解氷して最初に島らしく見えたのが淡路で、次が四国、隠岐ということを示していると解釈できないこともない。しかし、実際にそうだったとしても、その順番が生活に大きく響くものとも思えない。それだけでは、古代人の記憶にずっと残るような現象ではないということ。ついでながら、この解氷期以前の歴史が記載されていないということは、記憶を伝える言語能力が不十分だったことを意味しているのではないか。)

 当時の本州は、大倭豊秋津島とされているところを見れば、大きな島でトンボだらけということになる。湿地が多かったのだろう。それは、後になって、日本を「豊葦原之千秋長五百秋之水穂国」と呼んだことでもわかる。いたるところ高く伸びる葦だったのだから、汽水域が広大だったのである。舟も入りづらく、焼畑どころではなく、生産性も低かったことが想定される。
 ちなみに、淡路島誕生前の蛭子と淡島は葦舟で流され、子として認められていない。島の形態としては淡路島より先に現れたものもあるが、それはたいした意味がなかったとはっきり記載されている。つまり、淡路島の出現で、“葦舟”時代は終わったと語っている訳だ。

 それでは、何故、淡路島だけが特別だったのか。その理由として考えられるのは、道具の「石」だ。淡路島産の特殊な岩を砕いた切れ味抜群の石器を用いた狩猟者がこの地の王者だったということかも。海になり、狩猟ができなくなったが、この石器で生活を変えたと見る訳である。
 石器を、舟材切り出し器具として使うことで生き延びたのだと思う。これにより、葦船から、“柱”を用いる筏や丸木船への大転換を図ることができたのだ。
 それをテコにして、ナウマン象の狩猟経済からの大転換を図ったのだから、その能力たるや恐るべし。
 淡路島の岩屋産が決め手だった可能性が高い。(2)その後、小豆島から四国(高松市)にかけて見られるカンカン石(3)も使われる。この石も道具に加工し易く、優れた材だ。淡路の次に、四国が生まれるのはそんな流れを示したものではないか。
(淡路島・岩屋から、四国の高松・国分寺、丸亀辺りに進み、小豆島も盛んになった。さらに坂出・金山産が主流になったようである。ただ、極めて硬い上に節理が板状なので、ナイフ型刃物には向いているが、鏃型は作りにくそうである。材木加工用具にはよいが、武器や一般の道具用としては、黒曜石が圧倒的に優っていそうだ。隠岐は黒曜石だろうか。)

 考えてみれば、この瀬戸内海での出来事が、日本人の岩信仰の原初ということかも知れぬ。残念ながら、岩信仰は抹消され続けて来たので、今ではその経緯を調べようもない状態だが。
(近代に入り、岩を壊したり、庭の装飾用に持ち出すとか、構造用材に使う風潮が急速に高まった。石器が消え、治水のために岩石を壊したりする過程で、神聖な岩の“祟り”を恐れなくなってきたということかも。)
    →続く[来週]

 --- 参考 ---
  【岩信仰のタイプを整理してみた。それぞれ全く異質なもの。混在するものもあるが。】
 ・岩石そのものが霊的な存在
   -持っている力を使わせていただける岩石(道具、地標、等)
   -地霊が宿ると考えられる自然石
   -霊験があったとされる特別な岩
 ・人為的に霊的な存在にさせた岩石
   -実物と形態が似ていることで霊性を呼ぶ岩石
   -祖先の霊との交流接点としての墓石(必ずしも遺体が葬られている訳ではない。)
   -岩から特定形態に加工品することで霊的威力を発揮する石
   -宗教との融合(石仏[磨崖仏,地蔵尊像,等]、仏塔、経典の板碑、仏足跡、教祖腰掛)
   -中国系信仰を導入した路傍の石(庚申塔、石敢當、道祖神像)
 ・神が一時的に降臨する場(神が抽象化されている。)
 ・威力を発揮する石製祭祀器具
 ・聖域(異界)と俗界との境界石標
   -岩の洞窟を使う。
   -岩で囲う。
   -岩を並べる。
   -石を一面に敷く。

 --- 参照 ---
(1) 遠部慎,他: 「瀬戸内海最古の貝塚 −豊島礼田崎貝塚の再評価−」 汽水域研究 14 [2007年]
   http://www.kisuiiki.shimane-u.ac.jp/LAGUNA/laguna14pdf/P69_76.PDF
(2) 「ひょうごの遺跡 30号」 兵庫県教育委員会埋蔵文化財調査事務所 [平成10年9月25日]
   http://www.hyogo-c.ed.jp/~maibun-bo/iseki30.htm
(3) 牧本博,他: “20万分の1地質図幅「徳島」(第2版)”地質ニュース498 [1996年]
   http://www.gsj.jp/Pub/News/pdf/1996/02/96_02_12.pdf


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