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2013.7.25
 

イマジネーションベース日本通史

…仏教時代の急遽対応期…

イマジネーションベース日本通史の例として時代区分を作ってみた。→[20130716]
そのなかで、534年[仏像/経倫の公]から980年[宋商陳仁來来着]までを、【仏教】の時代としたが、古墳→飛鳥/白鳳→奈良→平安という流れと余りに違うので違和感を覚えた方が多いかも。
だが、一寸考えて欲しい。石舞台は古墳。それは古墳時代に入れるのかネ。一体、なにが切れ目なの。藤原京と平城京は全く違うコンセプトなのかナ。同類でも全く違う時代と見る理由はどういうこと。ご自分で説明できるなら結構だが。

【仏教】の時代も、もちろん3期に分かれる。
 (1) 急遽対応期 導入し混乱が生じるが意に介せず走る。
 (2) 選択的疾走期 急追/徹底排除の方向設定後、徹底追求する。
 (3) 独自路線追求期 爛熟期とした方がよいかも。最後は腐敗。
揺籃期→成長期→成熟期→老衰期にしたら、人間のライフサイクル表現だからわかり易いかも知れぬが、3区分の方が実態にあっていそうということで。

その「急遽対応期」がどうなっているか年表的に追ってみよう。ちなみに、その前の時代は【原始道教】一色。王権を象徴するかのような統一型大型墳墓が続々と作られた時代でもある。文字と朱が呪術的に使用され、教団的紐帯としての共同葬儀が「古墳」で行われたと思われる。それが一変するのだ。時間はずいぶんかかったが、日本社会にとっては革命的変革の時期だった。
但し、注意すべきは、ここで言う「仏教」は、あくまでも渡来した仏教という点。それは、すでに原初の思想からかなり変質しており、道教・儒教色も濃厚。政治体制に適合するような宗教になっていた訳である。その伝来思想を反「道教」的に位置付けることで、日本は、新たな時代を切り拓いた訳である。

もちろん、538年の仏教公伝が新時代のメルクマール。朝鮮半島よりずいぶんと遅れての渡来だ。
  372 前秦より北朝仏教が高句麗に
  384 東晋より南朝仏教が百済に
先ずは、最新学問/技術の導入が図られた。それはすべて僧侶を通じてである。仏教国家への道を外れてしまえば発展なしということが明白になってしまった訳である。
  554 僧曇慧渡来、五経・易・暦伝来
  577 経綸/律師・禅師・比丘尼・呪禁師・造仏工・造寺工渡来
  588 仏舎利伝来、僧・造寺工・鑢盤博士・瓦博士・画工渡来
      (596年の飛鳥寺建立に繋がる。)
  595 僧慧慈渡来 僧慧聰渡来
  602 僧観勒渡来、暦・天文地理・遁甲方術伝来
  610 僧曇徴渡来、彩色・紙・墨・磑碾の製法伝授
しかし、殯(本葬儀前の、骨のみになるまでの対処)は相変わらず続いており、仏教的死生観はなかなか受け入れられない。
  535 殯(安閑天皇)
  539 殯(宣化天皇)
  571 古市[古墳群の地]で殯葬送儀礼(欽明天皇)
  586 殯宮(敏達天皇)
そこで土着的墳丘意識からの離脱を図る。
  593 磯長陵から磐余池上陵に改葬(用明天皇)
仏教に馴染まない墳丘での祭祀を廃止させるべく手を打つ。
  641 盛大な葬喪儀礼(舒明天皇)
  646 薄葬令・・・殯禁止
ここまでで約100年かかった訳だ。
止めをさすが如く、矢継ぎ早に、墳丘を単純な墓標のみの墓にする方向も打ち出す。まあ、本来は、仏教の指針ではなく、道教や儒教的なのだが、アンチ前時代風習ということ。
  667 小野毛人墓誌
肉食・狩猟禁止令にまで踏み込んだり。
  675 牛馬犬猿鶏肉食禁止詔勅
即位の礼を墳丘儀式から隔離。
  673 大嘗祭(天武天皇)
これで、ようやく仏教が広く受け入れられるようになる。
  684 金光明経の正月読経
  693 仁王経の講
もっとも、同時期に巻き返しも。
  686 飛鳥浄御原宮で2年を越える殯(天武天皇)
そうはさせじと火葬の開始。
  700 法相宗僧道昭初火葬
  703 太上天皇火葬(持統)-大内山陵
ここでいよいよ満を持して仏教国化へと踏み出す。なにせ、平城京構築のため古墳を削平対象としたのだから。これはなかなかできることではなかろう。
  708 元明天皇平城京遷都詔
  [市庭古墳253m][木取山古墳][神明野古墳]
驚くことに、貴族の反撥はなかったようである。素晴らしい都の構築大歓迎ということ。
ということで、ようやくにして仏教国化が完成する訳。
  741 聖武天皇国分寺建立詔
  742 盧舎那大仏造立勅願
急ぎに急いでの対応だが、ここまで約200年を要したのである。

古墳にはつきものだった主要副葬品の剣、鏡、珠は消えることになり、その代表を天皇家が受け継ぐことで継続性が保たれた訳である。古墳の人物埴輪で明らかだが、イヤリング、ネックレス、ブレスレット、ペンダントの類の着用は当たり前の正装だった筈だが、その習慣はすべて消え去った。
しかし、伝来仏教をそのまま受け入れた訳ではなく、今までの信仰すべてを習合する形にしたのはご存知の通り。例えば、消えた珠類は東大寺の仏像に使われたりする訳だ。

尚、蘇我稲目を中心とする崇仏派v.s.物部守屋らの排仏派という図式は、この歴史観では用いない。グローバル志向の新興改革派とドメスティック志向の守旧既得権益維持派間の対立と見なすことになる。仏教を受容しなければ、先端技術を学ぶことすらできなくなるから、反仏教を貫く筈がないのである。
尚、仏教の国教化路線を追求すれば、必然的に僧侶が教えたルールに基づいた官僚的政治体制を採用せざるを得ず、律令国家化へと一気に進むことになる。両者は表裏一体。

と言うことで、今回はここで〆。
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