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2013.8.3
 

イマジネーションベース日本通史

…【仏教】の時代の次…

以下は誰が見ても明確な時代区分と言えよう。
  ・飛鳥時代 (592-710)
  ・奈良時代 (710-794)
  ・平安時代 (794-1185)
  ・鎌倉時代 (1185-1333)
Descriptiveという意味では分かりやすいが、「通史」としての、歴史観を感じさせるものに仕上がっているかナ。

ド素人としては、どうしてもこの辺りを以下のように分けたくなる。説明が無いとコリャなんだかネの世界に映るだろうが。もっとも、解説したところで、その印象は変わらぬかも知れぬ。
 【仏教】の時代
   534年から・・・仏像/経倫の公伝
    仏教ベースの律令政治体制
    廃古墳礼拝+旧来信仰習合化
 【公思想と私的商売】の時代
   980年から・・・宋商陳仁來来着
    非宗派エリート階層と貨幣経済化を担う層
    科挙は未導入
    文化の多様化と宗教の世俗化
 【脱宗教政治と家毎の信仰化】の時代
   1271年から・・・蒙古使国書呈上
    多宗派並存許容
    武力による中央強権統治と地方分権
    国内外交易促進

【仏教】の時代の急遽対応期についてはすでに記載した。 →[20130716]
お読みいただいても、多分、ド素人なら、そういう見方もするだろう程度の感想しか浮かぶまい。それで十分。その感覚が欲しいだけなのだから。
継いで、その先の、【公思想と私的商売】の時代を取り上げてみたい。こちらは、更なりである。
タイトルも年号もまったく理解不能だろう。公家政治から武家政治に変わる切れ目もつくらず、コリャなんだという印象をお持ちになるのでは。そうお感じになったとしたら、こちらとしては大成功。素人話は嫌になるなどと言わず、とりあえず以下お読みになって頂きたい。

まず「980年」だが、まともな歴史書ならまずとりあげることはない年号である。なにせ、宋の商人が来訪した位しか目ぼしい話はないからだ。しかも、藤原道長が権力中枢へと進み始めた頃で、正式な国交話でもないものを取り上げるのはバカかとなるのが普通。常識的には平安時代の円熟期というか最盛期に入る時期に切れ目を作るなどもっての他だから、その感覚は正常である。

しかし、こと対外関係で考えればこれは一大事件では。言うまでもないが、それは、政権中枢が驚いたという意味ではない。できる限り無視する態度に出たに違いない。だが、大局的に眺めると、どう見ても、ここら辺りから時代は大きく変わり始めているのである。

ご存知のように、894年に遣唐使は廃止された。外交貿易は打ち切られ、渡航も禁止状態。にもかかわらず、こうした中国側からの動きで、貿易関係は構築されてしまうのである。九州では事実上私貿易開始ということ。
その流れを利用して、その後、平氏主導で公的な日宋貿易が始まり中央に膨大な富が流れ込むことになる。言うまでもないが、ここら辺りの変化は武家社会への前奏曲として片付けられる。だがネ、海外情勢にはことのほか関心を示す民族が、そんな姿勢で臨む筈はあるまい。自分の頭でこの位置付けを考えてみたらどうか。

平氏は瀬戸内海平定に尽力したが、早い話、この貿易が培ってきた利権を一手に握ろうとの動きなのは自明。つまり、武力による地域安定なくしては交易がなりたたない時代の入り口こそが「980年」という訳。
そして、注意を払うべきは、朝廷政治は私貿易に関与できない点。換言すれば、対外的な交易基盤の安全保障方針は打ち出しようがないのである。朝廷の外交権は名目的なものになってしまったことを意味している。
理屈から言ってそうだという話をしているのではない。それが現実なのである。なにせ、1019年には俗に言う刀伊の入寇があった位の世の中。(満洲の女真族船団による壱岐・対馬襲撃と筑前侵攻)ちなみに、平氏を倒した源氏にしても、執政の地とした鎌倉とは海港地。積極外交が不可欠なら、内陸の地では上手くないのである。

ついでながら、武家政治確立をメルクマールにするなら、「1192年」は不適当では。以下のような入滅を、貴族政治から武家政治への転換の事象と見なすことになるからだ。平氏とは貴族政治を支える武力勢力なのかネ。
  (1184年没) 源義仲、平敦盛、平維盛
  (1185年没) 安徳天皇、平重衡

感覚的におわかりだと思うが、このような戦乱の世は平安な「仏教時代」とは言い難い。仏教そのものも当然ながら変質する。西行法師(1118-1190)が登場するような社会ということ。

再度、980年頃に戻ろう。
天台衆では源信が念仏三昧の求道の道を切り拓いた頃だ。「往生要集」脱稿は985年。
いかにもドメスティックな信仰書のイメージで紹介されることが多いが、それは大きな間違いでは。日本に来朝した宋の周文徳に贈呈した本が宋の天台山国清寺に収められたからである。それも、出版翌年のこと。その後、広く中国各地に流伝され、「日本の小釈迦源信如来」と崇められたそうだ。(龍谷大学建長版解説)明らかに、日宋交流は始まっていたのである。しかも、かなり深いレベルで。
ご存知のように、源信の主張の核心は「厭離穢土 欣求浄土」。極楽を求めるなら念仏三昧ということが主意である。換言すれば、教団が指定する様々な修行に励んで往生を目指す姿勢は浅薄であり、素直に「南無阿弥陀仏」一途であればよしと喝破した訳である。このことは、国家丸がかえの仏教とは姿勢が180度違う。個々人を救済する宗教への変身が図られたのである。宋で高く評価された理由は、ココだろう。
時あたかも、国家管理外の、私的海外貿易の世界が開けつつあり、実にタイムリーな思想。

末法の世の中ということで「厭離穢土 欣求浄土」が貴族社会に広がったとされるが、小生は大陸で源信が高く評価されたこと故の帰依だと思う。宗教の役割が、政権中枢を守護を核にした国家鎮護・安寧から、個々人の信仰基盤を提供する思想へと大変身を遂げたのである。同時に、古代から連綿と続いてきた現世志向の太陽信仰と習合した東方瑠璃光浄土希求(薬師如来)から、死生観を基調とする西方極楽浄土希求(阿弥陀如来)へと、文字通り180度転換を図った点にも注意を払うべきだろう。従来の祭祀はたいした意味を持たなくなるということ。天皇-公家-仏法の秩序は否定されたも同然であり、すでに時代は変わってしまったのである。
1192年とは、それを公然化したにすぎまい。祭祀が政治場面から取り払われ、それらは風習としての「お祭り」にされてしまった訳である。

こうして、【公思想と私的商売】が広がれば、来世志向だけでなく、現世志向も現れる。武家が大陸の禅宗を取り入れたがったは当然の流れでもあろう。そして、個々人の信仰と仏法護国を繋げる必要もある訳で。言うまでもなく、それは大陸とコンパチブルなものでなくてはこまるのである。
このような歴史観で眺める場合、一連の宗教改革の流れに日蓮だけは含めるべきではない。それは元寇から始まる次の時代の人だからだ。

ということで、この辺りで〆としよう。
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