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2010.3.4
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方針なき時代区分の命名…

日本では、歴史を“科学的”に考えたい人は少数派かも。
 古事記や日本書紀の扱い方が人によってずいぶん違う。これは、政治思想が原因と言う人が多い。しかし、小生はそんな話ではないと思う。
 だいたい、ほぼ同時期に同じような内容の歴史書が編纂されたのである。どうしてそんなことまでする必要があるのか、古事記のどこがこまる記述なのかという説明を聞いたことがない。徹底的に両者の差を調べたとの話もきかない。そんなことはどうでもよいと考えているとしか思えまい。
 しかも、細かな論点での議論は山のようにあるが、大所についてはさっぱり。例えば、外来宗教である仏教の話はどういうことになっているのか。銅鐸など、音に関しては意図的に記載しなかったようだがその理由は。中国の歴史書は、国名は日本の地名とほぼ一致しているのに、古事記に登場する尊名とは無関係なのも関係するのか。
 その程度さえ明確化できないのに、史実とそうでない部分を分けたり、記載間違いを指摘することができるらしいから唖然。

 “科学的”に考える習慣が身についていないから、こうなるのではないか。前にも書いたが、重要だからそのための必要条件をご説明しておこう。

 1つ目は、説明の納得性。正しい結論か否かという話とは無縁。結論がおかしくても、説得力があるなら、十分価値がある。逆ならゴミ。
 こういうことを言うと、嫌がるのが日本の体質。論理がおかしかろうが、矛盾があろうが、周囲のムードにあった結論ならOKにしたいからだ。
 資料から、おかしな部分を切り捨てたいなら、おかしなところを判断する理屈を明確にして、全てを検証する必要がある。生半可な作業は説得性ゼロ。

 2つ目は、仮説の土台となっている「ものの見方」がはっきりしていること。これは、説得力とは次元が違う。
 日本では、ここが0点のものが多い。重要なのは、どう見たかを説明することではなく、どのように見られてきたかを説明した上で、自分の見方はそのなかでどう位置づけられるかを示すこと。
 こう言うと、誤解する人が大半。異なる見方と比較して、自説の正当性をこれでもかと説明しているのに、どこが悪いのだと言い出しかねない。自説の正当性を細かく示す比較作業自体にたいした意味がないことが理解できないからだ。ここが肝心。
 様々な見方を整理し、自説の位置付けができているかだ。これがいい加減なものは「科学的」ではないということ。
 研究論文でいえば、その目的・意義の部分が重要なのである。データを集めただけのレポートでも、位置付けによっては千金の価値があるということ。書き手は自説の正当性を書いているつもりでも、それは他の論文の欠点を並べただけのものならゴミと見なされてもおかしくないのである。

 この2つの条件を満たしている主張が極めて少ないのが日本の特徴である。“科学的”に考えたくない風土なのがよくわかる。
 理屈より、周囲の状況に合うような結論か否かが重要視されているということ。これを歴史の分野に持ち込まれるのだからたまらぬ。

時代区分名称がさっぱりわからぬが。
〜一般的な時代区分と名称の発端〜
旧石器時代 歴史学の一般的名称
縄文時代 土器分類名(形態)
弥生時代 土器分類名(初発掘地)
古墳時代 古代の墓の一般名
飛鳥時代 美術史区分
奈良時代 首都の現在の地名
平安時代 都の呼称
鎌倉時代
南北朝時代 政権内部構造
室町時代
戦国時代 統治状況
安土・桃山時代 城名・城跡命名
江戸時代
明治・大正時代 天皇名(諡号)
昭和時代
現代
 そんな危惧の念を抱かざるを得ないのは、時代区分名称のひどさ。納得性はないし、どういう見方かもさっぱりわからぬ。これでは、恣意的な区分がなされていると考えざるを得まい。この状態で、まともな議論ができるものだろうか。
 そう感じる人がいないのか、批判するのが怖いのか、実に不思議な国である。おそらく、これが日本らしさそのもの。ものごとは理屈では決まるものではないぜ、と公然と語る姿勢。

 右表を見ればわかると思うが、封建時代とか、共和制という言葉がそのまま当てはまらないからといって、これはないだろう。
 圧巻は“弥生時代”。カンブリア紀のような発想の命名である。すでに中国では歴史書があるというのに、とんでもない話だと思うが。
 土器時代にしたいなら、縄文は前期、弥生は後期とするのが普通の考え方ではないか。
 その後もどういうことか、一般名称の古墳とくる。土器時代には古墳はなかったのかね。王権発生の象徴である古墳を指すなら、そうした用語にすべきでは。あるいは、宗教的な観点で古墳時代と言いたいなら、土器時代をアニミズム時代に、古墳は氏族崇拝時代とでもした方がよかろう。その後は、仏教伝来時代か。
 そもそも、遺物や遺跡にの名称にこだわる理由がさっぱり理解できない。寝殿造り時代、書院造り時代、天守閣型城砦時代、洋館時代と記載するようなもの。文化の視点で見ること自体は悪い話ではなく、時代の最盛期ということで、元禄とか、天平といった年号利用や、白鳳といった呼び名を使うのは結構な話だが、それを歴史観に繋げかねない区分名称は避けるべきである。時代を変える原動力になったのは何かがわからないものは駄目である。

 こうした呼称の混乱は、“科学的”に考えていないことを物語っている。恣意的に、いつでも時代の説明を変えることができて好都合だから、こうしているとしか思えない。

 と言っても、ピンとこないかも。少し説明しておこう。

 例えば、普通は徳川幕府と呼び、江戸幕府とは呼ばない。親藩・譜代・外様といった細かな制度が一大特徴の幕府だったから、徳川時代と記載する方が自然ではないか。
 まあ、鎌倉の場合は、源氏から北条家に権力が移行したから、地名の幕府名称にするしかなかったから、それにならっただけと言えないこともないが。
 都の名称が重要だと言うなら、飛鳥浄御原宮とか、藤原京も登場させて欲しいもの。この方が時代感覚が湧くのではないか。平安時代も、右京が機能していた時は平安宮時代、公家邸転々時代、白河殿時代といった具合に細分化もできよう。
 そうなると、参謀本部があった三宅坂とか、GHQが設置された第一生命相互ビルも、時代の細分区分けには重宝するかも。現代はもちろん永田町時代か。町より村の方が感覚的には合うが。

 ここまで書くとトンデモ論臭くなる。しかし、そう感じたなら、今一度表を見直して欲しい。

 平安時代と呼ぶが、奈良時代の次なら、普通は京都時代になるのではないか。あるいは逆に、平城時代としないことに疑問を感じないかね。
 驚くことに、こんな質問をする生徒はいないらしい。歴史の勉強が単なる暗記ものに堕していることがよくわかる。
 つまらぬ話に聞こえるかもしれぬが、コレ結構重要である。奈良という現代の地名にしたのは、藤原京や長岡京も含めた包括的な時代ということかも知れないからだ。だが、それを一括した時代にする理由はなんなのか。少し深く自習してきた生徒がいたなら、どう時代を区分しているのか質問してもおかしくないのでは。

 まあ、この辺りはおくとして、どうしようもないのが、安土・桃山という表記だ。安土城、伏見城、大阪城が象徴的存在の時代だが、城跡の桃山という表記はいただけない。大阪湾の海上交易を感じさせず、いかにも美術史臭くなるからだ。これでは、ギルド制の京都から離れた地に、商工業を中心とした城下町を造ろうとの時代だったイメージが湧いてこないではないか。

日本は素人の方が“科学的”思考に慣れ親しんでているのかも。
 なにを言いたいかおわかりだろうか。
 日本では、よくわからぬ時代区分が使われるため、素人が鋭い歴史観を持っている可能性があるということ。
 こんな国は滅多にあるまい。

 そう感じたのは、ズフの素人の古代社会のイメージの豊かさに驚かされたことがあるから。
 時代の定義が曖昧模糊としているから、知識量が少ない素人は、自分の頭を使って時代感覚を研ぎ澄ませるしかないのだと思う。しかも、学者と違って、大胆な仮説を語ることに躊躇がないし。

 朱に染まった墓が見つかったが、素人論を聞かされていると、意外性は感じない。平城京で当然にして膨大な水銀が消費されることなどあり得ない訳で、宗教施設だった古墳で朱を用いていてない筈はないというのは、素人でも想像できる話。空海訪中の資金力もここら辺りかもとの見方もある。私的留学僧がどうして、沢山のものを短期間で持ち帰れたのか、学者は語ろうともしないから、素人はこうしたシナリオを描くしかないのである。

 ひょっとすると、素人の方が、専門家よりずっと科学的にな思考をしているような気がしてくる。
 日本の製造業が強かったのは、実はこのあたりにあるのかもと思ったりする。ただ、これは小生の勘にすぎない。科学的思考からきたものではない。


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