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2010.6.18
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亀を称える体質…

 「兎と亀(hare and tortoise race)」という世界的に有名なイソップ寓話がある。筋は単純だが、その意味は文化毎に相当に違うかも知れない。そんな話をしてみようか。

 日本の場合、皆たいてい同じことを言う。幼い頃から頭に叩きこまれたからだろう。・・・
     “じょうずな ひとでも いいかげんに やっていては まけて しまいます。
      また へたな ひとでも まじめで やれば じょうずな ひとに かつことが できるのです。”
          → 「うさぎとかめ」ふくむすめ童話集

 言うまでもないが、力点は後ろ。前の方の、“油断大敵”は一応触れているに過ぎない。
 こんな説明ではわかりにくいかも知れぬが、要するに、日本では亀君を褒めたたえるということ。

 小生は、こんな発想は日本くらいではないかと見ている。勘にすぎないが。
 と言うのは、西欧的価値観なら、亀は“こずるい”輩と見なされる可能性があるから。当たり前だが、これはスピード競技。もしも、レースの途中で眠りこけていた選手がいたら、それを注意するのが、フェアプレー精神だと思う。勝てるなら、なんでもよいという亀流を賞賛するものか、はなはだ疑問。さらに、そんなレースに勝って何が嬉しいかなとなりかねまい。

 これだけで、なんとなくおわかりになると思う。
 兎は能力あるが、粗忽者。ただ、負けは負けとしていかにもいさぎよい。西欧流思想なら、愛すべき対象なのでは。
 それに比べれば、亀は褒められるどころか、間抜け扱いされる可能性さえありそう。負けが自明の勝負にのせられたからだ。
 現実を直視できず、面子だけで動く輩としか映らないのではないか。しかも、侮蔑的言葉による挑発に乗せられるという、実に単純な頭の持ち主。
 どう対応すべきか少しでも考える習慣があったら、池を渡る競争に代えるといった模索でもしただろう。それを、道路でのスピード競争が一番価値あるとの兎理論をただただ受け入れるだけでは、愚鈍と見なされても致し方なかろう。

 しかも、勝利できたのは誰が見ても偶然。それを、努力していれば偶然が舞い込んでくると一般理論化してよいのだろうか。
 まあ、そんな感覚は、「いとこ同志[Les Cousins]」[「狂った果実」のゴダール化と呼ばれた作品]を見た方なら百も承知の筈。軽薄な遊び人が世の中の成功者になり、真面目に頑張る人は没落一途というのが現実。もちろん、遊び人が悪で、真面目人間が善という映画ではない。

 こんな風に考えると、亀君が褒め称えられるとしたら、なんらかの仕掛けを考案して、勝利に導いた場合だけではないか。例えば、酒が弱い兎と出発前に乾杯し、アルコールが回ってきて兎が途中で寝てしまうことを狙うといった類の手が考えられよう。どうせたいした意味のない競争なのである。そんな才覚こそ絶賛されるべきだ。この場合、教訓は、“知恵こそが勝利の鍵”かな。

 ただ、こんな“知恵”のご教訓を大事にする民族は、覇権抗争で明け暮れることになりがち。
 一方、愚鈍を大切にすると揶揄される民族は、知恵を発揮できないかというと、逆だったりする。まさにパラドックスそのもの。
 まあ、それは、この寓話の優れてた点でもある。兎は華やかに見えるが、寿命は短くはかなく消えていく動物。それに対して亀は永続的。しかも、兎さんは戦闘的に見えるだけで、実は臆病そのもの。逆に、甲羅で守りぬかれて、いかにも臆病そのものに見える亀君だが、実際は勇敢そのもの。
 なにせ、縄張り意識が強い猫でさえタジタジとなる。それが信じられない方はYouTubeの動画をご覧あれ。目から甲羅。
       →  “猫と陸亀”
       →  “my tortoise and kitten”
       →  “my cat and turtle”
       →  “Cat gets chased by turtle ”
       →  “It's complicated between cat and turtle”
       →  “Turtle and Cat”


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