→INDEX ■■■ ジャータカを知る [2019.3.12] ■■■ [4] 馬 柱頭馬像は今のところ発見されていないが、そのタイプも存在していた筈。玄奘三蔵が、636年、すでに荒廃が始まっていたブッダ生誕の地[ネパール ルンビニ]を訪れ、馬像の柱ありと記載しているからだ。 驚くことに、そのような遺物が無いにもかかわらず、その柱のレプリカが日本に存在する。 [→「西明寺の阿育王石柱(右京区梅ケ畑槇尾町)」(C)Coma-たんさく人] 馬の重要性に気付いた僧侶がいたということ。 古代インドでは、馬は特別な扱いを受けていた。ヴェーダ教には国家的規模の最大の祭典アシュヴァメーダAśvamedhá/馬祭(馬等の供犠を含む大規模儀式)が規定されており、絶大な権力を握る王のみにその祭祀が許されていたからだ。おそらく、立派な馬が軍隊の庇護のもと全土くまなく巡った上で、その馬を神に捧げることで「王権」の根拠が示されるのだろう。馬の家畜化で一大飛躍をとげた遊牧民による軍事制覇祭祀が発祥だと思われる。 農耕民の牛崇拝が濃厚な風土で、馬崇拝の影は薄いが、国家基盤を作り上げる観点では、イの一番の信仰対象動物でもおかしくないのだ。 戦闘に於いては、実際に、馬が二輪戦車を牽引することで、圧倒的な力を発揮することができたと思われる。歩兵を蹴散らかすだけでなく、訓練すれば、神経質な象の軍団をも打ち負かすことができたろう。護法神の頂点に坐する梵天の出自は暴風雨神らしいが、どう見たところで戦争の神。それを支えた最重要動物が馬であり、インドラIndraが乗るのは馬王であるのは間違いあるまい。象の方が有名ではあるものの。 乳海で生まれた馬はウッチャイヒシュラヴァスUchchaihshravas[7頭有翼白色]。 基本インドラ用だと思うが曖昧である。 ソーマとかヴィシュヌが乗ってもおかしくはないが。 戦車を曳くときの御者はマータリ、愛車はビーマナという名前らしい。 アシュヴィン(双)Aśvinau(s)も御者の意味であり、ソーマの侍者のようだが、 もともとはインドラの侍者かも。 インドラ宮廷奏者のガンダルヴァGandharva/乾闥婆は半馬(鳥)半人だし。 尚、インドラの異名にも雄馬ヴリシャンVṛṣanがある。 こうした馬信仰があったため、天体神にしても、その移動は鳥のこともあるが、原則的には馬が曳く二輪戦車になのでは。ついでに、アシュヴィンも貸与されておかしくなかろう。 チャンドラChandra/戦捺羅[月]の10頭白馬 あるいは鵞鳥の上 スーリヤSurya/蘇利耶[日]の7頭無翼赤馬 スーリヤの最年少息子Revantaは騎乗猟師@ヒマラヤ 他の神々にしても、戦争になれば、普段の乗り物ではなく馬が曳く戦車にするしかなかろう。 ところで、シュクラṢukra/戌羯羅[金星]等の乗り物は何なのだろうか。 仏教で法輪が武器とされているのも、おそらくは、戦車の車輪イメージから来ていると思われる。転輪聖王の七宝 (輪[形武器],[白]象,[紺]馬,珠,王女,居士[主蔵臣],将軍[主兵臣]) に馬が入るのは当然のこと。 ただ阿育王石柱の馬像はそれとは違い、釈尊の出家シーンに関係しているのだろう。一般に、出家姿図絵は四天王を連れて騎乗である。王家の人々は基本騎乗ということでもあろう。知られないように暗くなってから出奔したのだから四天王が馬を運ぶことになるのかも知れぬが。 仏舎利にしても、運んだのは牛ではなく、馬だろう。 ジャータカの馬譚には、こうしたインドの風土を彷彿させる内容が記載されている。・・・ ○王子が妻と二人の子と戦車に乗って進む。 ○南の海で船が難破。 商人達が羅刹の島に漂着。 空から"雲馬"王が救出。 ○夜叉の若者が馬に乗り、 人間世界とナーガの世界を往復。 仏教の尊像で馬が登場するのはこんなところか。・・・ 馬頭観音…インドにはそのような像例は無いようだ。 ヴィシュヌの化身ハヤグリーヴァHayagriva/馬首が元とか。 勢至菩薩…阿弥陀如来脇待として知られるが、独尊は見かけない。 日本で生まれた守り本尊というだけのことか。(午) 馬鳴菩薩…アシュヴァゴーシャAśvaghoṣa[養蚕神]@2世紀のこと。 尚、ヴィシュヌ10番目の化身カルキKalki/迦樂季は、終末の救世者として、白い駿馬に跨って登場する。 →ジャータカ一覧(登場動物) (C) 2019 RandDManagement.com →HOME |