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■■■ ジャータカを知る [2019.4.20] ■■■
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🐓鶏は、日本では神使扱いだが、印度ではそのような感覚はなさそう。

尤も、グジャラート近辺では、鶏に騎乗する女神Bahuchara Mata信仰で有名な寺がある。地場信仰かと思いきや全インドに信者が存在しているという。アウトカーストとされるトランスジェンダー的人々(両性具有者)の信仰対象神なのだ。もちろん、西洋的同性愛者も含まれるが、それとはかなり趣が違う人々が多いようで、男系社会否定が根底にありそう。
言うまでもないが、社会的に認められた存在。お祝いの行事の引き立て役を務めたりもするそうだ。

このことは、インドでは男の同性愛のシンボルが鶏ということなのだろう。

もちろんジャータカにはそんな話の欠片も無い。
しかし、重要なことが書かれている。

[#119]婆羅門は勉学に励むために鶏を持っていた。その鳴き声で学びを規則正しく行えたのだが、その鶏が死んでしまった。二代目を探していたのだが、墓地に薪を持っていく時偶々そこに居たので連れてきて小屋で飼った。ところが、夜明けだけdなく、深夜にも雄たけびをあげる始末。お蔭で、何時も眠たくなるので、その鶏の首を絞めてしまった。

生まれが悪く、訓練を受けていないとこうなるという説話、との解説が付く。鋭い。・・・そう感じる人は滅多にいないだろうが。
間違えては困るが、動物になぞらえた創り話として読んでいる訳ではない。これは、動物観察の実話と考えるのである。つまり、ヒトに対する箴言のように執筆されてはいるものの、実は、ソコらはどうでもよいのである。
重要なのは、鶏が時告鳥の役割を果たせるのは、教育訓練の賜物であると語っている点。
おわかりだろうか。
動物の性分をなんでも「本能」と見なすのが現代の発想で、DNAに組み込まれた習性と語るのが普通。誰もそれが当たり前と考えている社会ができあがってしまったのである。
どこまでが本能の行為なのか定義はできていないし、ましてやそれが遺伝子で規定されているという論拠など仮説の態をなしていない。それが現実である。(プロテオームで時告行為を規定できる訳がないのである。)

原始仏教はこうした考え方と対立的である。動物愛護感覚からではなく、冷徹な観察から動物の行為を見ていることがわかる。
ヒトと同じように、動物もそれぞれの社会を持っており、そのなかで訓練され、初めてその習性が身に付くと主張しているのである。

[#284]薪採りが「自分の肉を食べた者王になる」という鶏の言葉を耳にし、捕まえて家で料理したが、食べる前に沐浴していて肉が流れてしまい象使いが食べることに。その後、象を使った戦争になり、象使いは王からローブを貰って大活躍した。王は戦死したので、後継ぎに。

一般的には鶏は猫にしてやられるもの。ところが、偶に、それを逃れて木の上から馬鹿にするような態度を示す鶏もいる。ジャータカではとりあげないようだが、なかには撃退する猛者もいる。猫は鼻を狙われそうになると怖くなるのである。

[#383]何百羽もの雄鶏を従えた野鶏が森に住んでいた。そう遠くない所にいる雌猫は計略をもって餌にしていた。このリーダーも喰ってやろうと、妻になることで騙すことに。止まっている木の下で美しさを賞賛。"親戚を喰い、さらに俺までも喰いたいのかと一喝。

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