→INDEX ■■■ 今昔物語集の由来 [2020.12.29] ■■■ [附65a] 蛇足 そろそろこのシリーズもお開きということで、どうしても書いておきたくなったのでご容赦のほど。・・・ もともとこのような思弁的話を聞いて役に立つのは、それなりに自分が勉強ができると自負している人達のうちのほんの一部。ほとんどの方々は不愉快になるか、そもそもはなから無関心。(尚、自分は勉強ができないと考えている人は、大概が勉強嫌いということ。従って、要領良くテストを通過する方法論に無関心となり成績の悪化が進む。もちろん、そんな技術を身に着ける、生活上の余裕が無いことが根本原因とも言えるのだが。) しかも役に立つといっても、概念思考の重要性に気付くだけであり、概念思考ができるようになる訳ではない。しかし、それができる人の存在に気付くから、一緒に議論することを格段に大切にすることになる。"本物"を見分ける目ができることになる。 これが社会を良い方に進む切欠になれば、と思っているのだが、ドンキホーテ的夢想か。 と言うことで蛇足。・・・ 小生が、「酉陽雑俎」や「今昔物語集」を取り上げている理由は、唐代の一風変った書や、日本の古代風俗がわかるような伝承物語に、格別な興味を持っているからではない。もちろん、千夜一夜的な物語の面白さに魅せられて引き摺り込まれた訳でもない。 「侏儒の言葉」や「寸鉄 人生裏面観(ラ・ロシュフコー 箴言集)」を読むのと同じと言ったら、当たらずしも遠からず。要するに、読者挑発的な書であり、ヒトの本質を探究する姿勢が濃厚なので、検討してみたということ。 換言すれば、いずれも、綱渡り的なセンスで危ういことを書いている書ということになろうか。一応、それをエスプリが効いていると呼ぶ。(表に出ているのか知らないが、芥川にしても、揶揄した勢力から脅されたに違いない。) 従って、このセンスを共有できないと、編纂者の意図を誤解しかねまい。 ところが、これが現代人にはとっては極めて難しい。 政治的に大言壮語する人はいくらでもいるが、スローガンだけで中身は空のことが多い。当然ながら、それで生活が成り立つという安全地帯に居る訳で、部外者から見れば知的緊張感を欠くお気軽な人達に映る。 もっとも、当の本人はそう思っていないようだが。 そんな現実を知っている人は、アヴァンギャルドやパンクとして活躍することに。しかし、結局のところ、半ば公認の出来レースを走らされているような状態に陥る。霞を喰って生きていく訳にはいかないからだ。 そんな社会に住んでいれば、とんでもない昔の頃、綱渡り的なセンスで発言することがいかに難しく危険なことか想像できる訳もないのである。 小生は、著者名無しの草稿に見せた書にするのは、防衛上当たり前のことと見る。 そうした緊張感のもとで、どうしても伝えたいことを盛り込んだのが「今昔物語集」。 人間の本質を知るために使えそうなテキストがなかったからだろう。 なにを言いたいかおわかりになるだろうか。 本質を知るためには、分析思考をできる限り遠ざけ、概念思考を働かす必要があるということ。「今昔物語集」はその鍛錬のための書として成立したと見なすことも可能だと思う。 (C) 2020 RandDManagement.com →HOME |