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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.12.9] ■■■
[附55a] 宇佐八幡宮の役割
神仏習合がスムースに進むようになったのは、「今昔物語集」の視点で眺めれば、南都から北京に移ってからということになる。そこで、どういうことか解釈してみた。📖→

しかしながら、もともと和気清麻呂から気になって書き始めた項であるからでもあるが、習合の大きな一歩は宇佐八幡宮が踏み出したように映る。
  ●宇佐八幡宮(720年隼人の乱⇒敗者霊鎮魂[創建725年])…放生会
  ●手向山八幡宮@東大寺749年
  ●山城石清水八幡宮寺860年
  ●備前窪八幡宮寺859年
  ●宇部琴崎八幡宮寺859年

  ○筑前筥崎宮(御祭神:応神天皇+神功皇后・+玉依姫命)921年藤原真材創建

しかも、現代でも全国津々浦々に存在しており、美麗で立派な社殿を誇る神社も少なくない。
それほどに有名な割に、史書での扱いは冷淡そのもの。[「日本書紀」巻一神代上#6"一書3"]表立って書かない方針が採用された印象。
そのためか、ご祭神由来の解説も要領を得ないものだらけ。

しかし、「今昔物語集」的見方をすると、それは謎でもなければ、不思議な動きという訳でもなさそうである。

名前の解釈一つ、ということで。

要は、八幡をどう見るか。
仏教的な"幡"と聖数"八"ではなく、単に、戦闘旗揚げの八幡の意味と考えればすべてが氷解する。

孫子・呉子・諸葛亮の創案とされる震旦の兵法は八陣と呼ばれており、本朝には大江維時[888-963年]が唐から導入したとされているが、それ以前に伝わっていたと解釈すればよいだけの話。
つまり、戦争勝利の祈願の聖地として位置付けたのである。
(八陣の数字には意味があるようには見えないから、おそらく八卦から来た設定だろう。軍師として、格段に優れて勝ち戦になったというよりは、軍隊統率力が目立ったというに過ぎない感じもする。従って、本朝からすれば、その本領は"死せる諸葛、生ける仲達を走らす。"となるのでは。そこらを神の霊力と感じ取ってもおかしくなかろう。)

それは、神功皇后三韓(新羅、高麗、百済)征伐という事績に基づく由来になる訳だが、本来的には、それに深く関与するのは宗像社と住吉社の方。
どちらも古事記記載の古い神だからだ。
前者は、"胸形君等のもち拝く三前の大神"宗像三女神。玄界灘の海上交通路平安を旨とする守護神と見てよいだろう。
後者は、底筒之男神・中筒之男神・上筒之男神といういかにも瀬戸海の船神的な存在。従って、遣唐使船のような国家的な航海守護の神というのが本来的な役割と思われる。もちろん、息長帯姫命(神功皇后)が加わって摂津住吉大社が成立しているものの。

そこで、隼人族平定ということで戦勝祈願を行っていた豊前国東半島御許山磐座地での宇佐の氏神に、新たな御祭神(応神天皇+宗像三女神+神功皇后)を勧請したと見ればよいだけ。そのレベルが、実質的には習合に近かったということだろう。

宇佐の地は、軍事的に見てロジスティク上の要衝といえよう。難波の港と朝鮮半島港の中間点に位置し、距離的には大陸の方が近いからである。
大陸文化が直に入ってくる地域だった訳で、交流には仏教導入は欠かせなかったろう。"放生会"もそのような一貫と考えることもできよう。

東大寺手向山八幡宮にしても、ある意味、大仏建立の勧めを上奏できたのは、当時としては、宇佐八幡宮以外にあり得なかったということでもあろう。
筑豊地域の北東端部の香春から銅が産出しており、大陸から鋳造工も受け入れていたからだ。

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