→INDEX ■■■ 今昔物語集の由来 [2020.12.9] ■■■ [附55] 神仏習合推進者 そこには、かなり古層の話が含まれており、京都盆地に於ける信仰の変遷を示唆しているように思えた。 八幡神に直接関係してはいないが、どうも神仏習合の流れはここらで本格化したと見ていたのではないかという気がしたので、そこらを確認してみることにした。 なんとなれば、すでに書いて来たことだが、南都の寺は土着の神々と余り上手くいってなかったが、北京になるとその姿勢が一変し、神社の方から仏教勢力に近づいてきているようなかきっぷりであるからだ。 普通に考えれば、それは最澄と空海が密教を始めたから親和性があったということになるが、八幡神が敗者鎮魂を仏教に依頼したように、かなり前から動きが顕著であり、北京のこうした姿勢にもなんらかの背景がある筈だし。 (筑前 香椎宮/訶志比宮[「古事記」]@福岡立花山南西麓の祭事の年預に、観音信仰者があてられ、殺生役で池に入り行方不明になる話も収載されており、[巻十六#35] 神仏信仰に壁がなかったことが示されている。観音菩薩に帰依している醍醐の僧も、常に賀茂社に参詣していたりする。[巻十六#36]) 以下のように並べると、北京での流れがなんとなく見えて来る。社寺はいずれも山信仰というか、磐座を依代とした聖地である。古くから土着信仰が確立していた地に社寺を創建していったのだ。こうした寺のご本尊はほとんどが観音菩薩であり、現世ご利益祈願が主体だった可能性が高い。八幡神的な戦勝祈願はなさそうである。・・・ ---[10]崇神天皇--- 大山咋神❼日吉社(東本宮)@牛尾山/八王子山金大巌(日枝山頂から) 大己貴神大神神社/意富美和之大神@三輪山意富多多根古 └<箸墓譚> ---[26]継体天皇---─<琵琶湖側譚:越・近江系> 大己貴神阿多古神社/元愛宕神社@亀岡千歳国分牛松山507年 ---[38]天智天皇--- 大己貴神日吉社西本宮668年 ---[39]弘文天皇--- ---[40]天武天皇--- 役行者❼❼大和 金峰・葛城 役行者勝持寺@大原野(金蔵寺入口)679年 役行者神於寺@岸和田(葛城山系近辺磐座)683年 ---[41]持統天皇--- ---[42]文武天皇--- 大山咋神松尾大社@松尾山磐座701年秦忌寸都理 泰澄/雲遍 702年鎮護国家法師 …白山〜越智山〜越が拠点 (上醍醐寺や書写山円教寺も開祖か?) 泰澄役行者❼愛宕山8世紀初頭 (泰澄)役行者❼美濃(近江)伊吹社(牛のような大きな白猪) 弥高寺[852年(三修)]+大平寺 役行者❼摂津神峰山⇒770年神峰山寺(開成皇子)+安岡寺+本山寺 ❼近江比良山 【KEY】❼:後世設定の畿内七高山 ---[43]元明天皇---<元明天皇陵を多武峰出捜す話に係る。> 伊奈利社/伏見稲荷大社@三ヶ峰大亀谷711年秦伊呂巨具 大己貴神出雲大神宮@亀岡御蔭山709年 大己貴神鍬山神社@亀岡面降山709年 行基@和泉 (大鳥神宮寺)/(大鳥山勧学院)神鳳寺堺708年 行基@出雲 (佐陀神宮奥之院)/(山岳信仰)成相寺 行基葛井寺/法輪寺@嵯峨野713年 ---[44]元正天皇--- 藤原武智麻呂@越前 気比神宮寺715年…文献上最古神宮寺 金蔵寺@大原野小塩山718年隆豊…[巻十七#39]西山の西岩蔵山寺(仙久) 泰澄正法寺@上醍醐岩間山722年(天皇念持仏) ●宇佐八幡宮(720年隼人の乱⇒敗者霊鎮魂)…放生会 [45]聖武天皇--- 行基宝積寺@乙訓大山崎724年…[巻十六#40] 行基葛井寺/藤井寺@河内725年 行基西芳寺/西方寺(苔寺)@松尾(聖徳太子別荘跡)725年頃 ●豊前(宇佐神宮寺)/(弥勒禅院 虚空蔵寺 法鏡寺)725年 ●手向山八幡宮@東大寺749年 ---[46/48]孝謙/称徳天皇 [47]淳仁天皇--- 満願/万巻[720-816年]@常陸 鹿島神宮寺750年 満願/万巻[720-816年]@伊勢 多度神宮寺:揖斐川西岸 満願/万巻[720-816年]@筥根 三所権現 春日社神宮寺/常福寺+別当寺(興福寺) 大神社神宮寺/平等寺+大御輪寺+浄願寺 円仁@摂津 住吉神宮寺758年 ---[49]光仁天皇--- 法厳寺(清水寺奥之院)@音羽山778年賢心/延鎮 三室戸寺/御室戸寺@宇治780年頃行表 愛宕山五寺781年慶俊+和気清麻呂 ---[50]桓武天皇--- 勝道[735-817年]@下野 ニ荒山神宮寺:中禅寺湖畔784年 大山咋神大己貴神一乗止観院@比叡788年最澄 ---[n.a.]--- 相楽神雄寺@木津川(奈良山丘陵天神山磐座)8世紀中頃 @河内 枚岡(元春日)社六寺(神護寺,…) @山城 賀茂神宮寺 @尾張 熱田神宮寺 (上・下)賀茂/鴨社神宮寺…後世の地図では、中心的役割を担っていたように映る位置にあり、立派な多宝塔があったことがわかっており、そう簡単に追加できる施設とは思えない。「正倉院文書」735年に鴨県主黒人の記載があるそうで、古くから仏教組織が存在していた可能性が高い。尚、下鴨社伝では810年創建。 ---[56]清和天皇… <行教@大安寺> ●山城石清水八幡宮寺860年 ●備前窪八幡宮寺859年 ●宇部琴崎八幡宮寺859年 上記を俯瞰すると、 1つ目の流れは、"越"〜"近江"〜"山代"。 2つ目は、"出雲"〜"丹波亀岡"〜"愛宕"。 3つ目は、役行者の"葛城"〜"山代"。 4つ目は、これに乗って動いた行基の"南都"〜"山代"。 一見、バラバラのようだが、京都盆地のその後を決めることになる動きと見ることもできよう。 1つ目は、俗に言う、渡来系秦氏の流れともいえよう。鉱物資源調達という点で、琵琶湖・日本海海路ルートの重要性が急激に高まったことがその背景にあろう。継体天皇も重用したし。日吉社のその後を見ると、新羅との交流も深かったようであるし。大友皇子はこの勢力をバックに抱えていたということだろう。 (<大友>に係る笠置寺@相楽682年[本尊弥勒仏]は上記には記載していない。) 2つ目の"出雲"系だが、<箸墓譚>を指摘する位だから、中央政治にも、それなりの存在感が続いて来たのである。実際、1つ目の流れの核となっている大山咋神は小比叡で、大己貴神は大比叡に祀られており、位は上なのだ。 【参考】📖亀岡盆地の寺社 3つ目は役行者。「今昔物語集」では、聖徳太子と行基と並ぶ、本朝の3仏聖の位置付け。 ただ、完璧な山岳修行者。現代までそうした修験道の伝統は引き継がれているとはいえ、密教勢力としてはどうしてもマイナーな印象を与える。しかし、古代はそうではなかったようだ。山岳活動は実経済上も重要という面もあろう。水銀鉱山探索にしても、行者の手助けなくしてはできないのだから。 ただ、役行者が特別なのは、葛城出身という点。そこら辺りを基盤に活動していたので力が発揮できたのは間違いあるまい。つまり、その背景には葛城一言主大神の勢力が存在していたことになる。📖葛城〜金剛〜巨勢時代@古事記の歴史観 この神の地位は特別である。残虐なことで知られる[21代]雄略天皇が、天皇扱いして認め敬ったのだから。そんなこともあるのか、一言主側は、役行者を異端視したようである。そこらが、この辺りの人々が移住していく切欠を作った可能性もあろう。役行者が適地を見つけていったという流れの可能性もあろう。そして、そこが"鴨"の地となる訳だ。 もともと、葛城の地は高地が多く扇状地は狭い。稲作不適地が多く、農業的には経済力は弱体であり、移住は自然な流れと見ることもできよう。 その動きは「山城國風土記」(逸文)賀茂社に記載されている。 [上賀茂神社祭神賀茂別雷命の祖父、賀茂県主の祖] (賀茂建角身命)葛城を離れ、 山代の國の岡田の賀茂に至りたまひ、 山代河の随に下りまして、 葛野河と賀茂河の會う所に至りまし、・・・ 彼の川より上りまして、 (乙訓)久我の國の北山基に、定まりましき。・・・ 泰澄と役行者が同時に登場するのは、両者併存の流れが確立したことを意味していよう。秦系と賀茂系は婚姻関係でも結ばれていき、天皇家を支えていくことになる。 そして、こうした動きに行基も乗って、山代へと足を運んだということのようだ。 北京が生まれるはるか前に、主だった聖なる山々にはすでに社寺が生まれていたことになろう。山を拝するに、拝殿はなくてもよかったのだから、そこに寺が創建されれば、必然的に神寺という概念が生まれることになり、観音菩薩が安置されれば神仏習合信仰になってしまうのは必然だったように思われる。 経済問題を除けば、思想上で互いに排除し合う意味はおそらく薄い。仏教の学門的な暦で、その土地の土着の民の生活上の必要から生まれている暦を代替することなど無理であり、その風習を受け継ぐ神信仰が消える筈がないからだ。 儒教的宗族第一主義が入らない限り、早くに、両者は蜜月状態になった可能性が高かろう。山上に祖霊が昇っていくという観念は、祖先供養といっても、それは地域コミュニティのまとまりに昇華するという観念であり、そこに子々孫々まで義務化する宗属対立が持ち込まれることない。 従って、仏教には、敵対者の鎮魂が期待されるのは自然の成り行きであろうし、葬式や亡者追善供養を引き受けてもらいたいとの願望は早くから存在していた筈である。 小生は、本朝では、差違の曖昧化を進めることで併存を目指すことが多いと見る。だからこそ、それを許せぬ一神教や、宗族第一主義信仰の定着化を避けたと考える。ただ、そのような信仰者も少なくないため、共存と功利の観点で、風俗的に、倫理道徳観だけ取り入れるのにはやぶさかではない。 仏教の場合は明らかに共存し易いものの、"蕃神"と見なされており、同じような扱いを受けているのは間違いなかろう。本来的には、解脱を目指す信仰なのに、善行推奨と悪行阻止を掲げた倫理道徳的説教が中心になってしまったのは、このせいだ。 「今昔物語集」では、放生会の風俗化が始まり、人気を博し本家本元の怒りを呼んだ話が記載されているが、これこそ本朝の社会風土そのものということで拾遺的に収録したのだと思われる。📖逢坂山越の寺 もちろん、極めて曖昧な姿勢であるだけに、信仰者から見れば許し難き対処を受けているように感じることになるから、共存が奏功するとは限らない。それでも、この風土はそうそう簡単に変わるものではなさそうだ。 神仏習合も、そんな流れで見たらよいと思う。両者が擦り合わせを進めた訳ではなく、互いに、よさげに映る点を上手に取り入れたことから習合の流れが進んだということ。もちろん、経済問題が絡むから、神仏勢力の角逐は避けられまい。しかし、平安京で政治が行われている間、神仏間の対立が、仏教宗派間の抗争より凄まじかったとは、とうてい思えない。 そんな風に考えると、現在、葬式仏教とは揶揄する言葉になっているが、本来的にはそのような分担こそが両者併存の肝と言えなくもなかろう。葬儀に関与し始めたのはおそらく江戸期だろうが、そこに至る迄には、仏教勢力側の脱皮が必要だった筈。「今昔物語集」には、鐘楼の鐘が盗賊団に盗まれる話が掲載されているが、寺の僧達は、一人残らず、一般の人以上に遺体の穢れを極度に恐れている姿が描かれているのだから。📖盗鐘団 -----付録----- 【出雲について】 出雲では、隠岐や伯耆でも活動している僧 教昊が、7世紀末に寺(安来 野方廃寺)を創建している。「出雲国風土記」にはこれ以外に、10もの郡寺らしき新造院の存在が記されているし、国分寺も詔に先立って創建されたと伝わる。一方、記載社は400近く、これ以外にも存在していた筈だから、神祇信仰濃厚な国土ではあるのは確かだが、仏教浸透が遅れがちの地域とは言い難い。神祇の閉鎖的地域とのイメージがあるとすれば、それは恐らく中央政権の"出雲先走り"抑制策の結果だろう。様々な信仰に開かれていた土地柄だった可能性が高そう。 【賀茂について】 「出雲国風土記」"賀茂の神戸"項では、葛城の賀茂社に阿遲須枳高日子命が鴨として座すと記載されている。神亀3年に賀茂に文字変更とも。(「古事記」では、土着の阿遲志貴高日子根~は死んだ高天原派遣神に似ているとされて怒り、~度劒で喪屋を壊している。)鴨族は、山を越えて瀬戸海に出て葛城に移った出雲勢力ということになる。神武東征に関与しているとの主張と正反対。鴨族出雲系説を採用すると、"鰐 v.s. 鯉"とは、阿遲須枳高日子命の系譜と、越・近江で土着化を実現した渡来系の秦氏の、山代における主導権争いを示す話と解釈することもできそう。ここに中央政権が目をつけ、南都勢力を切り捨て、出雲と親しい賀茂と越・近江系秦の取り込みを図ったのかも。 (C) 2020 RandDManagement.com →HOME |