→INDEX ■■■ 今昔物語集の由来 [2020.10.30] ■■■ [附 41] 莫迦賢人 「賢愚経断簡(大聖武)」があるし、もう少し見ておきたいところだが、もとはジャータカ系パーリ語仏典なのでサラリと通過して来た。[パーリ仏典経蔵 中部 [3]後分五十経篇 3空品 第129経「癡慧地経/賢愚経」(中阿含経199)] そこで、少々触れておくことにしたい。 その場合、「賢愚」という表題に引きずられないようにしたい。特に、イソップ物語世代だと、馬鹿者を題材とした寓話には繰り返し接して来ているので、そんな話と思いがち。愚者と対比するかのように、賢き人の話も収載されている構成と見てしまう。しかし、そう思って読んでしまうと折角の価値を失ないかねないのでは。 「今昔物語集」編纂者はインターナショナル志向であることを忘れては拙いだろう。 そこでだが、"愚"とは、"馬鹿"のことである。ところがこの語彙、ほとんどの辞書によれば、梵語であるそうな。漢語表示は"癡"だが、あくまでも"moha/莫迦"の音写。 バカは、"烏滸"のような世俗用語ではなく、仏教概念ということになる。(そうなると、常識的には、信仰心はあっても、智慧を欠くという意味だろう。) 従って、震旦では、"馬鹿"はあくまでも動物の赤鹿でしかなく、本朝の意味のバカには使われない。📖動物の漢字表記 しかし、ソリャ、違うだろと考える人も少なくない。 鹿と指して馬と呼ぶ権力者に、阿諛追従を指すという話もよく知られているからだ。でも、これは。震旦「史書」秦始皇本紀趙高の"指鹿為馬"話を本朝で加工して、後から付け加えたと考えよ、とされているらしい。 一方、バカは倭語と見ている人も。すると、元は濁音でない筈だから"儚し"に違いないとなる。 ・・・そんなこと、「賢愚因縁經」からの引用とは全く関係なさそうに思うかも知れぬが、小生はこの、譚竺-震旦-本朝の馬鹿話の感覚がないと、【天竺部】巻二天竺(釈迦の説法)は面白味が半減するのではないかと思う。 簡単に言えば、阿諛追従する人達は、はたして馬鹿者かということ。生活のために、要領よく立ち回っているわけで、それを正してどのような意義があるのか聞いてみたいところだ。 馬鹿者に、お前は馬鹿者だと指摘する方が大馬鹿者と違うか。 馬鹿者だらけの社会には、それに似つかわしい馬鹿者の権力者が登場するだけのことでは。 もし、そう考えるなら、本朝のバカとは"儚し"を意味していることになろう。 つまり、知恵があると自負していても、所詮は馬鹿者ではないのか、という見方。 例えば、以下の富豪の家に生まれて出家する話をどう感じるかだ。・・・ 信仰だから奇跡話はつきもので、釈尊が阿難に因果の"理"を語ったというに過ぎないとも言えるが、このストーリーで何をもって"愚"と見なすのかははなはだわかりにくい。 経典題に合わせて、釈尊の言葉を収載したのであろうから、そこには賢人・愚人を峻別できるなにがしかの見方があってしかるべきだと思うが。布施の有無で、悪道に落ちずにすむか、はたまた富貴か極貧が決まるという、"因果の法"を信じれば賢者で、それを信じてないのが愚者というだけにも思えてしまう。 もちろん、【ご教訓】には、草木・瓦石だろうが、真心をこめ、三宝に供養すればよいのだ、とはされているものの。 【天竺部】巻二天竺(釈迦の説法) ●[巻二#_8]舎衛国金天比丘語 ⇒ 「賢愚經」巻五 金天品(第二十七) ○大きな家に住む富豪にして、途方もない財宝を持つ舎衛国の長者に 金色の身体で端正な姿形の男子が生まれた。 比類なき子だったので、父母の愛の注がれ方も半端ではない。 名前は、金色にちなんで、金天と付けられた。 誕生当日、家の内に、広さ八尺、深さ八尺の井戸が自然にできた。 その水が清浄なのはもちろんだが、 飲食物・衣服・金銀珍宝まで出て来たので、 好きなだけこれらを使うことができた。 成長すると、心も行き届くように。 父親は、この子に見合った妻を探し出したいと思うようになった。 ○その頃、宿城国の大長者にも、 金光明と言う名前の娘がいた。 美麗端正で、身体も金色。 誕生の日、こちらでも、自然に八尺の井戸が出来て、 同じように様々な物が出てきて、皆、心から満足していた。 その両親も嫁に出すなら、相応の夫でなければと考えていて 金天を見つけることができた。 ○こんな風にしてことが進み、金天と金光明は結婚することに。 その後、金天は、釈尊を招き、供養された。 釈尊は説法。 金天と妻、両親達はこの聴聞で、全員が須陀洹果を得た。 金天は夫婦揃って出家を希求。 すぐに両親の許諾を得ることが出来て、釈尊の御許に詣でたのである。 そして、出家後、夫婦共々羅漢果を得た。 ○それを見た阿難は、釈尊に申し上げた。 「どのような善因を積んて、 富貴の家に生まれ、身体金色で、 家に自然にできた八尺の井戸から種々の財宝が出て来たのか? さらに、釈尊にお会いして、すぐに果を得ることになったのか?」と。 釈尊はお答えになった。 「過去の九十一劫の時、 毘婆尸仏が涅槃にお入りになった後のことだが、 諸々の比丘が遍歴していて、とある村に辿り着いた。 村人はこれらの比丘を見て、競って供養した。 その時、村に夫婦がいたが、家が貧しくて、米も全く無かった。 村人が供養しているのを見た夫は、妻に向って涙を流して泣いた。 その涙が妻の臂の上に落ちたのである。 妻:「何故に、それほど迄にに泣いておられるの?」 夫:「我が父が存命中は、財は倉に積まれ溢れかえっていた。 それが、私の代になり、極貧に落ち込んでしまった。 おかげで、比丘に会うのに、供養さえ出来ない。 前世で布施を行なわなかったから 貧しくなる報いを受けているのだろう。 今、再び、布施をしなければ、 後世での報いは今以上になってしまう。 それを思うと涙が泊まらなくなる。」 妻:「ものは試しで、親の旧家に行って、 "僅かでも、何かあるかも。"と考えて 隅々迄、探して御覧になったらどうでしょう。」 そこで、夫は妻の言う通り旧家を訪れた。 すると、すると一金の銭を発見。 妻の所に持って帰ったのである。 一方、妻も、鏡1面と瓶を入手していた。 清水を満たした瓶に銭に入れて鏡で覆い、 それを二人で持参して、比丘のもとに行き、 布施の後、祈願して帰宅したおである。 その二人とは、現在の金天夫妻。 布施の功徳で、 その時から後、九十一劫もの間、 天上・人中に生れ続け、常に夫妻であり、 身体は金色という福楽を受けたのである。 そして、我に出会って、出家し道を得たということ。」 ●[巻二#_9]舎衛城宝天比丘語 ⇒ 「賢愚經」巻二 寶天因縁品(第十一) ○大きな家と、膨大な財宝がある舎衛城の長者の息子は 容姿が類例無きほど素晴らしかった。 誕生時、天から七宝が雨のように降り注いで、家の内に積み上がった。 両親は、限りなく喜んだ。 そんなことがあったので、宝天との命名。 成長し、釈尊と出会い出家。 羅漢果を得た。 ○それを見た阿難は、釈尊に申し上げた。 「宝天比丘は、前世において、 どのような福業を積んで、 福貴の家に生まれ、 生まれる時に天より七宝を降らし、 衣食は満ち足り、乏しい物は何もなく、 今、釈尊にお会いすると、 出家して阿羅漢果を得られましたが 何故でしょうか?」 釈尊はお答えになった。 「過去の九十一劫の時、 毘婆尸仏が出現された。 その時、多くの比丘が村落を遊行しており、 富貴の長者達が、競って供養した。 一人の貧しい人が比丘を見て感動。 しかし、供養できるものは何もなかった。 そこで、思い悩んだ末、 白砂を一握り取り、比丘に散らし掛けてから、 心から礼拝し、来世の往生祈願し、去って行った。 この貧しき人は、今の宝天である。 その功徳で、それから九十一劫の間、 悪趣に堕ちず、 生まれて来る所に天より七宝を降らして家の内に満ち溢れさせ、 衣食は自然に満たされ、不足する物もない。 今、我と会い、出家して阿羅漢果を得たということ。」 ●[巻二#13]舎衛城叔離比丘尼語 ⇒ 「賢愚經」巻五 貧人夫婦疊施得現報品(第二十五) ○大きな家に住む富豪で、途方もない財宝を持つ舎衛城の長者に 容姿端麗で世に並ぶ者なしの娘がいた。 誕生当日、細やかな白絹織の帷子を着けていた。 それにちなんで、叔離と名付けられた。 成長すると、次第に出家を願うようになり、 平安な生活を嫌って釈尊の御許に参って、 「出家したい。」と。 釈尊は、仰せに。 「よくぞ来られましたな。」と。 すると、叔離の髪が自然に落下し、 着ていた白帷子は五衣に変わった。 そして、釈尊は説法。 叔離は、即座に、阿羅漢果を得た。 ○それを見た阿難は、釈尊に申し上げた。 「この比丘尼は、 前世において、どのような善根を積んだが故に、 富貴の家に生まれ、 生まれた時には白帷子に包まれ、 さらに、仏にお会いしてすぐに阿羅漢果を得るといった、 ことが出来たのでしょうか?」と。 釈尊はお答えになった。 「遥かに昔、九十一劫の頃、毘婆尸仏が出現された。 その時、いつも、毘婆尸仏の御許への参詣を、国中の人々に勧め、 説法聴聞し布施を行わせる比丘がいた。 その頃、檀膩加は大変貧しい生活をしていた。 夫と共に暮らしていたものの、 夫婦は帷子を1枚しか持っていなかった。 夫が着て外出してしまうと、妻は裸で家にいることになり、 妻が着て外出すると、夫は裸で家に居るしかなかった。 そこに、この比丘がやって来て、 その妻に勧めた。 "仏がこの世に現れた時に、 お会いすることは難しい事です。 仏の説教をお聞きすることも難しい事です。 人間界に身を置くことも難しい事なのです。 ですから、今こそ、仏を見奉って、説法聴聞し、 ひたすらに心をこめて布施すべきです。"と。 妻は答えた。 "今、夫は外出中なので、帰って来たら相談し、布施を致しましょう。"と。 そのうち、夫が戻って来たので、語った。 "比丘がやって来て、布施を行うようの勧めて帰って行きました。 一緒に、布施を行いたいと思うのですが。」と。 夫は、それに応えて、 "我が家は貧しい。 布施の心はあるが、何を布施しようと言うのだ。」と。 そこで、妻は語る。 "前世において、布施を行なわなかったので 現世で貧窮の身に転生してしまったのです。 再び、布施を行なわないと、 後々の世でも、今のような状態が続いてしまいます。 どうか、布施をさせて下さいまし。"と。 夫は理解した。 "妻は、密かに財を蓄えていたのだろう。 そうなら、布施を許そう。"と考えたのである。 そして、言った。 夫:"思い通りにすればよかろう。 布施する物があるなら、それを今すぐ布施すればよい。" 妻:"それでは、今着ている垢で汚れた帷子を脱いで下さい。 それを布施するつもりですから。" 夫:"二人でこの1枚しかない帷子をか。 今、これを布施すれば、これから先何を着たらよいのだ。" 妻:"貧しくて着る物が無くなってしまいますが、 それでも、この帷子を布施することで、 後世、必ず福を得ることが出来るでしょう。 惜しむ気持ちを起こしてはなりません。" 夫は、その言葉を聞いて、その真摯さに感動を覚えて同意。 妻は、比丘に布施を申し出て 家の中に呼び入れて、帷子を脱いで差し上げたのである。 そこで、比丘は尋ねた。 "どうして、面前で布施せず、 家の中に呼び入れてから、密かに布施をするのか?"と。 妻は答えた。 "我々夫婦にはこの帷子しかなく、着替の着物がございません。 女の身体は汚らわしく醜いですから 面前で脱ぐ訳にもいかないですし。"と。 比丘は帷子を受け取り、女のために呪願した後、帰って行った。 比丘はすぐさま毘婆尸仏の御許にこの帷子を持って行くと、 毘婆尸仏は受け取り、捧げ持ち、 参集していた御弟子達に語られた。 "清浄の布施として、この帷以上のものはない。"と。 その時、国王と后はご一緒に説法聴聞のため、 毘婆尸仏の御許に参詣しており、その場に居られ、 そのお言葉を聞き、 后はすぐに、瓔珞と宝の衣を脱ぎ、女のもとに届けさせた。 国王も、衣服を脱ぎ届けさせた。 夫も、説法聴聞に毘婆尸仏の御許に参っており、 毘婆尸仏は夫に説法。 この、遥か昔の頃の妻とは、今の叔離比丘尼。 この功徳で、九十一劫の間、悪道に堕ちず、 常に天上界と人間界に生まれ続けた。 富貴を得たのは、このようなことがあったから。 だから、我に会い、阿羅漢果を得ることが出来たのだ。」 【参考】梁麗玲:「《賢愚經》在敦煌的流傳與發展」中華佛學研究 第五期 2001年 (C) 2020 RandDManagement.com →HOME |